九品寺地図
駒形九重神社地図
番水の時計 地図
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九品寺

戒那山宝池院九品寺
 弘法大師が行基の聖跡を尋ね、戒那千坊を開いたという伝承となっている。
奈良時代中期以降、官寺、学問寺が集中する奈良仏教は次第に懶惰(らいだ・
なまけること)と頽廃へ傾いていた模様で、山林へ浄地を求めて修行する清僧
が多かった。戒那千坊はそういう奈良の官寺、学問寺に対し戒律を厳格に守
る修行僧の聖域であったと言われる。その寺々は南北朝時代の戦火にほとん
ど焼け亡びたが、九品寺は焼亡をまぬがれた戒那千坊の形見として伝えられ
ている。 
   
   
 九品蓮華界・勝過三界道   
 

千体石仏

 南北朝時代、城主檜原氏が楠木正成公とともに南朝に味方し、 北朝と戦ったと

き家族や地元の人々が身代りに奉納したと伝えられ、 そのため身代り石仏とも呼

ばれています。

   
   
   
   
 
 行基上人
   
  西国三十三所 
   

九品   
平等院  九体阿弥陀  東大寺(行基) 
浄瑠璃寺  阿弥陀如来  浄土寺 



駒形九重神社
 
 神殿
   
   

【村社 駒形大重神社御由緒】

御祭神

駒形神社::駒形神(木股(きまた)の神) 木の神·水の神·安産の神

大重神社…:滋野貞主命(しげの)・家内安全・学業成就・良緑成就の神

      …大倉下照姫命 毅物の神

 当社は古くより当地域内で「大重神社」と「駒形神社」という別々の神社としてそれぞれ

鎮座していましたが、諸般の事情により明治四十一年二月一日に「大重神社」を「駒形神

社」へと合併奉祀した為、「駒形大重神社」と改称されました。同時期に神社境内には、

春日神社、市杵島比売神社、八幡神社、神明神社、琴平神社の五社が鎮座されています。

駒形神社御由緒

 創立年代や沿革は不明ながら、昔から当地ではこの山林を駒形山とi言い、御祭神を木股様

(木股の神)と申し上げて崇敬してきました。

木殿(木俣)は「このまた」とも読むことから「こまがた」と転化したものとも考えられます。

御祭神「木股(木俣)の神」は因幡の白兎伝説でも有名な大国主命八上比売の御子神で

別名を「御井の神」とも申し上げることから木の神·水の神・安産の神様として崇敬され

ています

大重神社御由緒

 大重神社は創立年代不明ながら、明治四十一年二月一日迄は地域内字田口に鎮座した
延喜式神名帳にも記載されているいわゆる式内社で、「大和名所図会」にも葛木大重神社とし

て掲載されています。しかし、なぜ「大重」という名称となったかは不明で、穀物の神で

ある「大倉下照姫命」を配る「大倉神社」であったものが、「大重」と変化したという説

等緒説あります。

 御祭神「滋野貞主命」は平安時代初期に活躍した人物です。

奈良時代の有名な儒学者で当地楢原出身の楢原東人の會孫にあたり、滋野という姓は御祭

神の父 家訳が桓武天皇から賜ったことに由来します。

貞主公は仁明天皇の皇太子時代「学士」として家庭教師に選ばれるなど特に学問に秀でて

おられ、『経国集(漢詩文集) 』二十巻を勅撰されさらに天長八年(八三一年)には日本

最古の百科事典と云われる一千巻もの書物『秘府略』を選集されておられることで有名で

又、政治家としても大変有能で仁明·文徳の両天皇に重用され、藤原氏が権勢を握ってい

た時代にありながら参議・正四位・ 宮内郷・,相模守という非常に高い位に就かれました。

更には民衆の生活にも心を寄せられ、私費を投じて平安京内の自らの邸宅に慈恩寺という

寺院を建立して人々の安寧を願っておられたと云われています。

当神社に伝わる古文書にも、「重野貞主は生まれつき思いやりがあり、度量もありながら

情け深い性格で、話をする際には人を傷付けない様に気遣いをする人であり、人々を推挙

してその能力に応じて引き上げた」などと記されています。

又、貞主公は当時としては非常に背が高く、六尺二寸(約一八八cm )もあったと云われて
ています。

仁寿二年(八五二年)の春に唇に悪性の腫瘍を患い、天皇より薬を賜ったものの それを

使う事を望まずに「自分の葬儀は質素に行う様に」との遺戒をしてまもなく自らが建てた

慈恩寺の西書院で二月八日(新脈三月二日)に享年六八歳で帰幽されましたが、その死に

際しては身分の上下を問わず悲しみ、嘆かない者はいなかったと伝わっています。

当地楢原では古くから縁のある滋野貞主公のご人徳を偲び御祭神と仰いで、家内安全・

学業成就・良緑成就等の神様として人々に篤く崇敬されています。

御所市観光協会

 
 
 左から、琴平神社・市杵島神社・八幡神社・春日神社・神神社明
   
   
   

 大和三山、左から耳成山畝傍山香久山



番水の時計
 
   
  過去、水の調整として時計と二股に別れる水路を使用した。
現在は、吉野から流れる水源が豊富にあり、水争いは無くなったが、
米一升・水一升と言われた時代は水の管理は厳格に行われた。