志賀直哉旧居地図

 近くにある鷲池と浮見堂(地図
 この高畑裏大道の一帯は、東は春日山の原始林、北には
春日の杜を透して飛火野の緑の芝生が展開するという、静かな
奈良の町の中でも特に風光明媚な屋敷町で、新薬師寺白毫寺
にも近いという土地柄から、やがて多くの文化人がこの家に出入り
することになる。
 昭和3年に志賀直哉が自ら設計し、数寄屋造りで有名な京都
の大工に建築させ、翌年4月奈良市幸町の寓居から移ってきた。
ここで彼が「暗夜行路」を完結し幾多の作品を書いた。また文人
でありかつ美術にも造詣の深い彼を慕う文人、画家たちが多く
集まるサロンにもなった。
志賀直哉と奈良⇒

兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美し

く、残ってゐる建築も美しい。そして二つ

が互に溶けあってゐる点は他に比を見ない

と云って差支へない。今の奈良は昔の都の

部分に過ぎないが、名画の残欠(ざんけつ)が美しい

やうに美しい。

  志賀直哉「奈良」『志賀直哉全集』岩波書店



やまとぢのるりのみそらに たつくもは

いづれのてらのうへにかもあらむ

  會津八一


古色を帯びた松木立の中に鹿が群れ遊ぶ

奈良公園とその周辺には、春日大社、東大

寺、興福寺、元興寺などの世界遺産の社寺

が甍をきそい、古代人が野遊びした飛火野

など万葉人が行き交った風景が今も残って

いる。凛とした建物や彫刻の数々は、古代

から鎌倉時代を経て今に続く古都の精粋を

感じさせ、まさに歴史の宝庫である。

茶室内部 志賀直哉が茶室前で 茶室外観
裏千家関係の大工下嶋松之助による茶室
 この茶室について直哉は書いている。
 私は茶道の事をいふ資格のないものであるが、二十何年の昔、奈良の上高畑といふ所に家を建てる時、
大工が裏千家関係の数寄屋大工で、建物の何所かに茶席を造りたいといふので、
私は書斎の裏の中庭に面した南向きに六畳の日本間を作って、友達が来た時、寝ころんで気楽に話をしたり、
或るひは将棋をさしたり出来る部屋を作ってくれと云ふと、大工は喜んでそれを忽(たちま)ち本式の茶席に作って了った。
 結局、私の考えた用途にはならなかったが、家内と娘三人、興福寺の坊さんを師匠にその部屋で茶の稽古をすることになった。

「暗夜行路」を
完結した書斎
食堂 志賀直哉を慕う文人・画家
が集まったサンルーム
 書斎・茶室・サンルーム・食堂などは、彼の趣味をよくうかがうことができる。 
浴室 中庭 子供たちのために作ったプール
 彼の新居とその周辺は、鎌倉時代頃から、春日大社の神官たちの住んでいた社家の跡である。
この屋敷跡の崩れかけた土塀や古い柿の木などが春日の杜に調和する独特の風情は、
多くの画家たちのこころひくところであったのか、画家や作家などの文化人が、彼と前後して高畑
に移り住んできた。
しがなおや —なほや【志賀直哉】人
(1883~1971)小説家。宮城県生まれ。東大中退。武者 小路実篤らと「白樺」を創刊。父親との確執により作
家としての主体を確立,強靭きようじんかつ純粋な自 我意識と明晰めいせきな文体によって,独創的なリア
リズム文学を樹立した。代表作「大津順吉」「城の崎 にて」「和解」「暗夜行路」
大辞林 第三版
 高畑町⇒⇒⇒








江戸三

奈良·春日大社への参道入り口にある一之鳥居のそばに、十

棟ばかりの数寄屋風の建物が点在する。料理旅館「江戸三」。

後に昭和を代表する批評家となる小林秀雄は、1928 (昭和

3)年初夏からの1年近くを、離れの一つ「縁由の間」で送っ

た。東京帝大を卒業したばかりの26歳。東京で一緒に住んでい

た女から逃げてきたのだった。

女とは、友人で詩人の中原中也の愛人、長谷川泰子。3年前

に中也から奪った。しかし、中也はその後も新居に訪れ、愛憎

渦巻く「奇妙な三角関係」が始まる。

次第に泰子の「潔癖性」 がひどくなり、耐えられなくな

った。小林は関西へと出奔する。

放浪生活について多くを語らなかった小林だが、数少ない例

外にエッセー「秋」(1950年)がある。毎日のように東大

寺二月堂に通い、 塩からい雁もどきをつまみに般若湯を飲みつ

つ、プルースト「失われた時を求めて」を原書で読んだ。「自

分自身に常に不満を抱いている多くの青年の例に洩れず、心の中に

得体の知れぬ苦しみを、半ば故意に燃やし続けていた」

なぜ、奈良だったのか。

志賀先生の紹介でいらっしやったようです」。江戸三の4

代目主人·大和隆( 50 )は話す。

小林の滞在は2 代目の祖父の時代訪れた文人墨客たちの話を

亡父から伝え聞いていた。

志賀直哉は3年前、京都から、江戸三に近い奈良市幸町に

移り住んでいた。小林をはじめ、自らを慕う芸術家の卵が訪

れるたび、宿として紹介した。

「戦前は旅館ではなく、建物を下宿のように貸し出していま

した。古い木造家屋はすきま風がひどく、暖房設備もなかった

ものですから、小林さんは、天井の裸電球を布団に引き込んで

暖をとっていたそうです」志賀や親戚の援助で暮らす赤

貧生活ながら、江戸三を拠点に小林は関西各地へ出歩く。英文

学者·西村孝次の「わが従兄.小林秀雄」によると、神戸の関

西学院でビールをひっかけて講演したり、京都の妓楼で芸妓そ

っちのけで哲学者ベルクソンについて語りあったり。評論「モ

オツァル上の有名な記述「大阪の道頓堀をうろついていた

時,突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で

鳴ったのである」もこの頃。青春の彷徨というにふさわしい。

「当時の仲居の目には、なんだか遊んでばかりいる人と映っ

たようです。でも、その後の準備をしていたのでしょうね。宿

代は結局、志賀さんが払われたようです」と大和はいう。

年が明け、小林は東京に戻る。そして半年後、雑誌の懸賞

評論「様々なる意匠」で、華々しく文壇デビューを果たした。
2017-7-27 朝日新聞 =敬称略(野渡健祐)

ご)あんない

「江戸三」は1907 (明治40 )年創業。当初は料亭だったが、戦後、
館業も兼ねるようになった。

小林のほかにも、多くの文人墨客が訪れており、洋画家の小出楢重は大正

3年から寄宿し、3年後には結婚、そのまま約1年の新婚生活を送った。小

林が身を寄せた離れの前客には日本画家の堂本印象、のちには作家の
尾崎一
雄が入った。

店の名物料理が「若草鍋」。ホウレ ンソウを土台に海鮮や野菜をこんもり

盛りつけた鍋で、志賀が新緑の若草山にたとえて名付けた。

江戸三から南東へ10分ばかり歩いたところには、志賀の豪華な旧居が保存

公開されている。 

































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