石光山 石山寺地図

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 東大門(重文)両脇に仁王像が立つ
     
東大門(重文) 

東大門は、三間一戸の八脚門·入母屋造本瓦葺の建物で、正面の左右に仁王像を置くことから
仁王鬥とも呼ばれています。

現存の門は、鎌倉時代の初期、建久元年(一一九0)の建築で,桃山時代の慶長年時

(一五九六~一六一五)にかなり大規模な修理改造が加えられています。
天井下の葵股や破風の懸魚などに桃山時代の特徴がよく現れています。
しかしながら,やはり建物の建ちが低く、深い軒は古寺の大門としてふさわしい姿をしています。

明治四〇年( 一九〇七)八月に重要文化財に指定されました。

大津市教育委員会

 

   
 本堂(国宝)

石山寺本堂は、桁行七間,梁間四間、寄棟造の本堂と桁行九間,梁間四間、寄棟造で懸造(舞台造)
の礼堂と、その両棟を結ぶ相の間
によって構成される総檜皮葺の建物です。

石山寺の建立は古く、本堂は天平宝字五~ 六(七六一~二)にかけて造東大寺司によって

拡張されたことが正倉院文書に見えます。その後、承暦二年(一0七八)に焼失し、永長元年(一〇九六)
に再建されたのが、現在の本堂
で、天平宝字頃のものとほぼ同じ規模をもつ滋賀県で最も古い建物です。
礼堂と相の間は、
慶長七年(一六〇二)に淀君によって建て替えられました。

昭和二七年(一九五二)に国宝に指定されました。

大津市教育委員会

 聖武天皇の勅願により天平勝宝元年(749)良弁僧正におって開基され、歴朝の尊崇あつい寺院。
 西国三十三所の第十三番札所。
 本堂は県下木造建築最古のもので、内陣は平安中期、外陣は淀君の修補になるもの。
 源氏の間は紫式部が源氏物語を書いたところと伝えられる。
 多宝塔は鎌倉時代の建築。
 鐘楼、大門は鎌倉初期の建立になるもの。
 奇岩は石山の名の出た石で硅灰石からなり、天然記念物に指定されている。 
 
 文楽 二月堂の段より石山寺建立の謂れ⇒⇒⇒
 石山寺⇒⇒⇒
 動画      石山寺硅灰岩と塔⇒⇒⇒
全動画⇒⇒⇒ 
 琵琶湖から流れ出る瀬田川を望む石山寺の境内からは、ひときわ美しい中秋の名月を楽しむことができるという。
 紫式部はその月を眺めるうちに心が澄み渡り、源氏物語を着想したと伝えられる。
 寛弘元年(1004)中秋の名月の夜に、新しい物語を作るために寺にこもった紫式部は窓(本堂、源氏の間)から湖面
に映る月を見て、京を退去した光源氏が月を眺めて都を思う場面に思いつき、手元にあった般若心経の紙に筆を走らせた。
 清少納言のほか、蜻蛉日記(かげろう)の作者藤原道綱母も寺に参拝したとされる。
これは観音信仰が盛んだった平安時代、京都から半日で着く寺は、救済を求める女性が滞在するには格好の場所であった。

 
多宝塔(国宝)
国宝の仏塔一覧⇒⇒⇒ 
 永長元年(1096)再建の本堂は、慶長年間につけられた礼堂から
からなる檜皮葺の建物、現在最古の多宝塔。
 本堂内には紫式部ゆかりの源氏の間がある。  
   
 多宝塔

多宝塔は、下層が方形、上層が円形の平面に宝形造の屋根をのせた一重の塔です。
石山
寺多宝塔ほ建久五年(一一九四)に建立されたもので、多宝塔の中でも,最も優れて美しい

姿をしており、上下左右の広がりがきわめて美しく洗練され、均斉のよくとれた建築です。

また、内部の柱や天井の廻りなどの壁面には、仏像や草花などの極彩色暴が描かれています。

昭和二六年(一九五一)に国宝に指定されました。

大津市教 委 会 

 
   
 鐘楼(重文)  経蔵(重文)
鐘楼

 この鐘楼は桁行三間、梁間二間、重層で袴腰を付け、屋根は入母屋造、檜皮葺となっています。
昭和二八年(一九五三)からの解体修
理によってかなり復元され、袴腰は白漆喰壁に、
棟は短くなって全体につりあいのとれた
美しい姿となりました。

縁下と上層の軒下には三手先木組(みてさきぐみ)をもっていますが、
とくに斜めにでる尾垂木のないの
は、珍しい特徴です。

源頼朝の寄進と伝えられていますが、様式や木材の風触から鎌倉時代後期のものと考

えられています。

明治四〇年( 一九〇七)八月に重要文化財に指定されました。

大津市教育委員会

経蔵 桃山時代

 桁行三間、梁間二間、高床校倉、一重、切妻造、桟瓦葺
経蔵は高床の校倉でかつては国宝の淳祐内供筆聖教等を収蔵した建物です

建物は、頭貫木鼻の意匠や桁や垂木に反り増しがあることなどから、
桃山時代の十六世紀後期頃の建立と考えられます。

八角の束柱上を頭貫で繋ぎ、その上に台輪が乗り校木は桁行·梁間方向とも同じ高さに
十段組んでいます。台輪は木鼻の部分で矧ぎ木をして一木のように見せています

県下における数少ない校倉造の遺構の一つで、また、

全国的にも類例の少ない切妻造の校倉として、さらに石山寺にとって重要な経典類が
良好な状態で長く収納されてきた建築としても貴重です

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  御影堂(みえいどう)

本堂の東、鐘桜の下にあるこの御影堂は、室町時代の建立で、
正面三間、側面三間、宝形造、檜皮葺で、背面に一間の張出し
を設けます。堂内は中央間後
方一間を板壁で囲って内陣とし、
内部の須弥壇には、弘法大師・良弁・.淳祐の遺影(御影)を安置
しています。

建立当初は、中央一間に須弥壇を置く形式でしたが、慶長期に
堂全体の修理が行われ、江戸中期に虹梁を加え後方を内陣と
する改造がなされました。

柱は全て円柱とし、外観は正面及び両側面の中央を板塀とし、
半蔀(はじとみ)を吊って、障子をたてます。

室町時代の軸部を残し、慶長期の洗練された外

観をもつ建築として、平成二十年十二月、国の重要文化財に
指定されました。

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 蓮如堂 毘沙門堂  権現社本殿(重文 )
蓮如堂
 慶長七年(一六〇二)

懸造一、桁行五間、梁間四間、一I重、入母屋造、妻入、桟瓦葺蓮如堂は、寺蔵文書から淀殿による慶長期の境内

復興の際に、三十八所権現社本殿(県指定)の拝殿として建築された建物です。

明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれています。

建物は、寺蔵文書や東妻破風板の墨書などから慶長七年の建築で、その後、文化八年(一八一一)に桟

瓦葺に改造されていますこの建物は、文書から神事のほか、仏事にも使用されていた非常にまれな建物です。

懸造で妻入りとし、入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、さらに鎮守側の北側一間通りを広縁とする

礼拝空間を構成するなど、独特の平面構成を持つ建築として、寺院における鎮守拝殿の一類型として、

建築史上からも極めて貴重な建築です。

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安永二年( 一七七三)

正面三間、側面二間、

一重、宝形造、桟瓦葺,背面閼伽棚を含む毘沙門堂は、堂内に兜跋毘沙門天とばつ・(重要文化財)

吉祥天・善膩師童子の三体を祀っています。

この建物は、兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、
大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工
や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重です。

毘沙門堂は近世後期らしい華やかな建物で、実際は正方形の平面でありながら、間口三間に対して、
奥行き二間とし、方三間にはしない点や、須弥壇前の柱筋の中央間は組物上の通肘木(とおしひじき)
を虹梁型(こうりょう)に加工しその中央に笈形付(おいがた)きの大瓶束(たいへいづか)を載せ天井を受
ける特殊な架構意匠を用いるなど特色にあふれた優れた建築です。

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毘沙門天

源頼朝の側近であった中原親能(ちかよし)は、和束で起こった反乱の討伐に向かうにあたって石山寺に詣で

観音さまに勝利を祈願しました。

石山寺の門を出発した時、親能の前に毘沙門天が現れ、無事反乱を鎮めることができたと,「石山寺縁

起絵巻」は伝えています。

武神であり、財宝神である毘沙門天は観音さまの三十三応現身(観音さまが人々を救済するため

に時と場所と相手に応じて変身した三十三の姿)のひとりでもあります。
この毘沙門堂に安置される
のは、兜跋毘沙門天立像(とばつ・重文)、平安時代後期)です。 

石山寺三十八所権現社本殿(さんじゅうはっしょごんげんしゃ)

 本殿は、一間社、流造、屋根は檜皮葺です。

石山寺は桃山時代に大規模な伽藍整備がなされており、本殿の建立は本堂の礼堂(らいどう)と同じく慶長七年

( 一六〇二)になります。

三方に刎高欄付(はねこうらん)の榑縁(くれえん)を廻らし、正面には木階七級と浜床を張ります。部材の保存状態は良好で、

内陣内部を素木(しらき)とし、外陣と外部は極彩色で彩られていたことがわかります。

三十八所権現社は石山寺の鎮守として創建されており、真下に位置する蓮如堂は、元は三丈所権現社の拝殿
として建立されたものです。

蓮如堂と合わせて、寺院における鎮守社本殿および拝殿の構成や礼拝形態を伝える貴重な遺構として、
平成二十年十二月,国の重要文化財に指定されました。

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源頼朝・亀谷禅尼供養塔   紫式部供養塔
     
 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 弘法大師作大黒天   朗澄丈徳ゆかりの庭園 
 宝篋印塔

四方に四国八十八ヶ所霊場の土が埋めてあり、これを廻ると八十八ヶ所を巡る同じ功徳を得ると云う。 

弘法大師作大黒天

万寿元年に石山寺の三人の僧の同じ夢のお告げに依り湖水出現。安置するこの大黒天は福招きの大黒天として古来より有名である。

お堂は鎌倉様式(再建) 

朗澄丈徳ゆかりの庭園

約八百年前の中興の祖朗澄律師(一一三一)は、石山寺屈指の名僧で、天資聡明の人であり、教学のほか図像画にも卓越し、
白描図
像等書写された物が大量に残されています。

又、多宝塔(国宝)内部の壁画も朗澄律師の筆によるものではないかと言われています。

朗澄律師は没後.石山寺経蔵のため切経、並びに聖教を守護し、万民の降魔招福の為、鬼の姿となることを誓い、

承元三年五月十四日入寂されました。


石山寺縁起絵巻(重文)
 「第六巻第二段」詞書きより

石山流の師、文泉坊朗澄は死後には鬼の姿となり多くの畜生類を連れてこの聖教を護り、法に従わない人を改めさせると言っていた。

朗澄の死後、その生前に秘法を伝授された弟子の行宴は、師の居られる所はどこかと熱心に祈っていたら、ある時夢に彼の山の峰の松の梢に

その姿が現れた。夢が覚めて急ぎその場所に行くと、虚空に声がして定印を結んで両眼にあてて見よという。その通りにすると、金色の鬼が

四方を見渡し、厳しい表情であった。画面は山谷が連なり、松樹の上に生前に語られた通り鬼のような姿で師の朗澄が示現したのである

 
 源氏の間

石山寺は、世界最古の長編小説『源氏物語』が起筆された寺院として知ら

れています。紫式部が石山寺で観音に祈り、十五夜の月が琵琶湖に映える

様子を見て、この物語の着想を得たと伝わっています。琵琶湖の水とその

美しい景観が生み出した[源氏物語1は、1000年もの間、人々の暮らしを

彩り、今後もなお、それは途切れることなく受け継がれていくでしょう。

寺名の由来となった巨大な硅灰石(けいかいせき)、
その上に多宝塔が立つ 石山寺硅灰石天然記念物)

岩と接触し、その熱作用のために変質したのですAJの作用によって通常は
大理石とな
りますが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは
珍しいものです。

石山寺の硅灭石は、二十ml大の短い柱状の結晶となったものや、
五ml大のものが五十ml
大に集合したものがあって、表面は淡

黃色あるいは淡褐色をしています。
しかし、
新鮮ばろのは純白色をしています。

また、この硅厌石のほか大理石、ベーブ石石灰岩からなる大岩塊は褶曲
のありさまが明
らかにわかるものとして責重なものであり

石山寺の「石山」の起りとなったものです。

大正十一年三月に国の天然記念物に指産れました。

大津市教育委員会昭扣五十九年二月