第47代 淳仁天皇(じゅんにん) 地図

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舎人親王(第七皇子)
当麻山(たえまのやま)(しろ)
誕生…733年(天平5年)
御名・異称大炊(おおい)・淡路廃帝
皇妃粟田(あわた)諸姉(もろえ)
立太子…757年(天平勝宝9年)4.4
即位…758年(天平宝字2年)8.1 
在位年数
…6
崩御…765年(天平神護元年)10.23  年令…33
皇居保良宮、平城宮  年号天平宝字
○事実上藤原仲麻呂の計略によって擁立された天皇であったから、実権はことごとく仲麻呂の掌中に握られることになった。仲麻呂は鎌足以来の藤原氏の功績や先の橘奈良麻呂の乱での活躍を踏まえ、日頃の精勤ぶりと私心のない姿勢をこの上なく讃えられ、「恵美押(えみのおし)(かつ)」の名を与えられた。仲麻呂は太政大臣同等の大師に任じられ種々の特権を賦与され、ついに正一位にまで上り詰めた。橘奈良麻呂⇒⇒⇒
○仲麻呂は天皇を自由自在に動かして専横を極めたが、光明皇太后の薨去と僧侶道鏡の出現によって事態は次第に緊迫し、その権勢にもかげりが見えはじめた。
○この時代、「開基勝宝」という金銭を鋳造した。いわゆる金貨を造ったのは我が国で最初である。また、同時に銭の「大平元宝」、銅銭の「万年通宝」が鋳造されている。
○孝謙太上天皇と道鏡との関係を天皇が見咎めると、上皇は激怒して、天皇は小事のみ行うべきであり、国家の大事と賞罰は自らがこれを行うと命じた。
○事態の急転に驚いた仲麻呂は、自らの安泰を狙って、叛乱を企てた。しかし、発覚して上皇方から追討の兵を向けられ、近江へと敗走したが捕らえられ、一族とも殺害された。
○中宮院にあった淳仁天皇も捕らえられ、仲麻呂との共謀を指弾されて、淡路へと流された。そのため、天皇は淡路廃帝と称された。孝謙上皇は再び朝政にあたり、仲麻呂の中国風の政治を是正し、詔して道鏡に大臣禅師の位を授けることとした。

陵墓淡路(あわじの)陵  山形
所在地兵庫県三原郡南淡町賀集字岡ノ前
○御陵は平野の真っただ中にあり、南面の円丘である。天王森といわれている。
○「延喜諸陵式」に「兆域東西六町、南北六町、守戸一烟」と記載されている。奉葬の地は伝えず、のち改葬のことを伝えるが定かでない。
○淡路陵の南約1kmに、淳仁天皇の母の墓が現在治定されている。

淳仁天皇天武天皇の孫

で舎人親王の子。藤原仲麻

呂や孝謙天皇の母、光明皇

太后のバックアップで皇位

についた。孝謙は譲位に不

満だったようだ。不満は母

の死後に爆発し、仲麻呂と

淳仁ともに死へと追いやら

れる。

 
持統 直孫への執念  大仏に食われた和同銭 道鏡について
淳仁天皇 太安万侶 白峯神宮  
仲麻呂の権勢  称徳天皇と道鏡@   仲麻呂の乱(称徳天皇と道鏡A) 
藤原仲麻呂   西隆寺 幻の尼寺    



舎人親王

淳仁天皇  淳仁天皇  道鏡について 
追尊天皇  持統直系への執念  円照寺 
弘文天皇  書紀の編纂  称徳天皇 
太安万侶 藤森神社  舎人親王邸
天武の宮廷に活きた天智の皇子  年表720年 長屋王の変  
長屋王なきあとの藤原氏  帯解黄金塚古墳   崇道尽敬皇帝(舎人親王) 
松尾寺 仲麻呂の権勢   




保良宮 地図

 
淳仁天皇  道鏡について  称徳天皇と道鏡@ 
仲麻呂の乱(称徳天皇と道鏡A)    

へそ石地図

ほらの前の礎石(通称へそ石)(大津市国分二丁目)

 この石は、その大きさから塔の心柱を支える礎石ではないか、と言われています。しか

し、あまりにも巨大であるため、はたして実際に使われたかどうか疑問があります。 ここ

に寺のあったことを証明するものが、何もないからです。

 奈良時代、この地周辺は、国昌寺や国分寺また、淳仁天皇の保良宮等があった場所
でもあり、そのどれにあたるのかは断定できません。

 このように不明な点も多いですが堂々たる礎石の姿はみごとで、この地の歴史を語るう

えにおいて見逃すことのできない存在です。

  大津市教育委員会   平成九年(一九九七) 三月

   


近津尾神社地図
洞神社(ほらじんじゃ)
山神神社
雨壺神社

 
 創立年代は不詳であるが、石山寺記録中之巻三によると承安三年後白河院石山寺へ
行幸された際、石山寺座主公祐僧都命をうけて勧請、石山寺祈願寺と奉崇すとある。
以来石山寺領の時は建造物すべて領主より寄進あり。膳所領となっても元和七年、
菅沼織部より安政三年本多下総守まで代々社領一反五畝、山林五丁歩余寄進せられて、
今日にいたっている。明治四十二年国分新田の洞神社、雨壷神社を合祀し、大正三年
国分西山の山神神社も合祀し、現在の社殿に改められた。尚境内地に元禄年間俳聖芭蕉
が移り住み、俳句をよんだゆかりの幻住庵が昭和十五年に再興され、毎年秋には盛大に
幻住庵祭が地元の人々によって行なわれている。
 社殿
   
   
 本殿 拝殿 
   
 神門  手水舎
   
 英霊殿  境内
   
 神輿蔵・拝殿 社殿 
   
 
 近津尾神社ホームページ⇒
   
洞神社・山神神社 雨壺神社 


幻住庵地図

幻住庵(松尾芭蕉ゆかりの地)
 「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。
・・・」で始まる「幻住庵記」は松尾芭蕉のここでの
庵住の生活のなかから生まれた。
 「おくの細道」の旅の翌年の、元禄3年(1890)4月
6日から7月23日までの約4ヵ月の間、芭蕉は近江の
門人で膳所藩士、菅沼外記定常(曲水)の勧めによっ
て、曲水の伯父の菅沼修理定知(幻住老人)がかっ
て暮らしていた庵に住まいした。
 ここで生活の様子や、それまで辿ってきた芭蕉
の徘諧道への心境などを述べたが「幻住庵記」であり、
「おくの細道」と並ぶ俳文の傑作とされてお
り、結びにおかれている「先づ頼む椎の木も有り
夏木立」の句に詠まれた往時を偲ぶように、現在
もなお。周辺には椎の木が多く残っている。
 この庵を出てからもなお、曲水への手紙の中で、
もう一度、幻住庵を訪れたいと述べているように、
芭蕉にとって幻住庵は忘れがたい地であった。
 このように芭蕉は大津の地をこよなく愛し、自身の遺言
により大津市内の義仲寺を墓所とした。
 なお現在の幻住庵は、芭蕉が生涯の地とした大津
を広く紹介する「ふるさと吟遊芭蕉の里事業」によって、
平成3年9月に新たに建てられたものである。 
 
   
   
「先ず頼む 椎の木もあり夏木立」 
   
  大津を愛した松尾芭蕉は、元禄3年(1690)に幻住庵に住みついた。
ここで奥の細道と並んで名高い「幻住庵記」を著した。また、この地でよんだ
「先ず頼む椎の木あり夏木立」 の句は有名であり、義仲寺とともに芭蕉の
旧跡を知るうえで貴重な地である。
幻住庵記碑
 芭蕉の徘諧七部集のうちの「猿蓑」初版本に掲載されている
「幻住庵記」の全文を、陶版で復元したもの。
幻住庵を望みながら、原文の趣やこの地をこよなく愛した
芭蕉の心境を親しむことができる。

とくとくの清水
 「幻住庵記」に「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲
みてみづから炊く」と述べられている清水で、幻住庵の
下の谷間にあって、今もなお、清らかかな水が湧き出ており、
芭蕉が住まいした往時が偲べる。

せせらぎ散策路
 「とくとくの清水」周辺を岩組みや木々で修景。
清水からあふれた水が「せせらぎ」となってながれて
いる。
水の奏でる音を楽しむ事の出来る潤いのある
散策路。


句碑フットライト
 幻住庵周辺やせせらぎ散策路付近に、芭蕉の俳句
に因んだ
花木を植栽し、陶板俳句をはめこんだフット
ライト10ヵ所設置。 

















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