父…舎人親王(第七皇子)
母…当麻山背
誕生…733年(天平5年)
御名・異称…大炊・淡路廃帝
皇妃…粟田諸姉
立太子…757年(天平勝宝9年)4.4
即位…758年(天平宝字2年)8.1
在位年数…6年
崩御…765年(天平神護元年)10.23 年令…33才
皇居…保良宮、平城宮 年号…天平宝字
○事実上藤原仲麻呂の計略によって擁立された天皇であったから、実権はことごとく仲麻呂の掌中に握られることになった。仲麻呂は鎌足以来の藤原氏の功績や先の橘奈良麻呂の乱での活躍を踏まえ、日頃の精勤ぶりと私心のない姿勢をこの上なく讃えられ、「恵美押勝」の名を与えられた。仲麻呂は太政大臣同等の大師に任じられ種々の特権を賦与され、ついに正一位にまで上り詰めた。橘奈良麻呂⇒⇒⇒
○仲麻呂は天皇を自由自在に動かして専横を極めたが、光明皇太后の薨去と僧侶道鏡の出現によって事態は次第に緊迫し、その権勢にもかげりが見えはじめた。
○この時代、「開基勝宝」という金銭を鋳造した。いわゆる金貨を造ったのは我が国で最初である。また、同時に銀銭の「大平元宝」、銅銭の「万年通宝」が鋳造されている。
○孝謙太上天皇と道鏡との関係を天皇が見咎めると、上皇は激怒して、天皇は小事のみ行うべきであり、国家の大事と賞罰は自らがこれを行うと命じた。
○事態の急転に驚いた仲麻呂は、自らの安泰を狙って、叛乱を企てた。しかし、発覚して上皇方から追討の兵を向けられ、近江へと敗走したが捕らえられ、一族とも殺害された。
○中宮院にあった淳仁天皇も捕らえられ、仲麻呂との共謀を指弾されて、淡路へと流された。そのため、天皇は淡路廃帝と称された。孝謙上皇は再び朝政にあたり、仲麻呂の中国風の政治を是正し、詔して道鏡に大臣禅師の位を授けることとした。
陵墓…淡路陵 山形
所在地…兵庫県三原郡南淡町賀集字岡ノ前
○御陵は平野の真っただ中にあり、南面の円丘である。天王森といわれている。
○「延喜諸陵式」に「兆域東西六町、南北六町、守戸一烟」と記載されている。奉葬の地は伝えず、のち改葬のことを伝えるが定かでない。
○淡路陵の南約1kmに、淳仁天皇の母の墓が現在治定されている。
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