玄賓庵地図
高野山真言宗。山号は三輪山。もと大神神社の神宮寺であったが、 廃物毀釈のとき、旧地の北桧原谷から茅原村内の現在地に移され 毀釈を免れた。 |
ここは玄賓僧都が隠棲していた庵で、重要文化財の木造不動明王座像 が伝わっている。 謡曲で有名な三輪は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものである。 玄賓は弘仁9年(818)に亡くなった。 |
玄賓僧都の庵。もとは三輪山の桧原谷にあっ て、山岳仏教の寺として栄えたが荒廃し、寛 文7年(1 667)に比丘宴光が中興した。明 治維新の神仏分離で現在地に移っている。 |
9世紀、玄賓僧都がここに草庵を結んで世を忍んだといわれ、謡曲「三輪」の題材となっている。 三輪山に庵居する玄賓僧都のもとへ、毎日閼伽(あか・仏に捧げる清浄なみず)の水とシキミを 届ける女性がいた。ある日、秋の夜寒を防ぐために衣を貸してほしい、と乞う。玄賓が衣を与えて 住居を問うと三輪の里、杉立つ門が目印、と告げて、きえてゆく。 やがて里人が、三輪の神杉に衣が懸っているとしらせにくる。玄賓が訪ねてみると衣の裾に 神の歌がしるされていた。そこへ女姿の三輪の神が現れ、三輪の妻問い神話を語り、天照大神の 岩戸隠れを舞い、夜明けと共に消える。 |
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木造不動明王坐像(重文)と大日如来 玄濱僧都の像が残っている。 その他、「三輪流神道」という中世の神道教学の一派の書物が多く残されている。 これは、伊勢神宮と大神神社を表裏一体とみ、ともに大日如来の金剛界と胎臓界(たいぞうかい)という 両界の神道的なあらわれだとする説であって、真言宗の教学を借りて、神道に哲学的裏付けを行った。
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三輪山の額が掛けられている山門、真言宗醍醐派 | 白壁の塀 | ||||||||||||||||||||||
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この堂は、ここより少し東の三輪山の中にあったのを、 明治初年の神仏分離で神体山の外に出したといわれる。 |
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玄賓は桓武天皇の病回復を祈願し、その功績により大僧都に任ぜられたが、 辞退して伯耆の国に隠遁してしまった。 しかし、その後平城上皇の病回復の祈願のため、再び都に呼ばれ、嵯峨天皇や、 清和天皇など歴代天皇の厚遇をうけた。 |
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玄賓は法相六祖の内の一人。六祖は、教学を基礎づけるなどの功績を残した常騰(じょうとう)、 神叡(しんえい)、善珠(ぜんじゅ)、玄ム(げんぼう)、玄賓(げんひん)、行賀(こうが)。 玄濱は俗姓は弓削氏で河内の人といわれる。三論宗の碩徳であり、唯識学を興福寺 に学んだが、一族の道教の専横を憎んで伯耆の山中に隠れた。その後、桓武天皇の 病を癒したことなどもあって僧官に任ぜられたが、辞して備中国湯川寺に隠れたが、弘仁9年(818)89歳で没したとき、清和天皇はその死を悼み、七言律詩をおくり冥福を祈っている。 |
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