蘇我と物部古戦場
跡部神社
大聖勝軍寺
物部守屋墓
鏑矢塚
弓代塚
樟本神社・物部守屋首洗い池
樟本神社・日羅寺
樟本神社
稲城
弓削神社
弓削神社
由義寺
由義神社
由義宮
渋川神社
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跡部神社地図
物部氏の祖神である饒速日命を祀っており、物部の一族である阿刀氏と関連があったと考え
られています。また、7世紀に開かれていた市場の一つ、阿斗桑市(あとのくわいち)は当地周辺 |
大聖勝軍寺地図
大聖将軍寺
椋樹山大聖将軍寺と称し、高野山真言宗に属し、叡福寺の上の太子に対して、下の太子と云う。 聖徳太子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信費山の毘沙門天に祈願し、 四天王を祀って、その加護により守屋を討って、戦勝を得ることが出来たので、ここに一寺を 建てて将軍寺と称したという。 |
大聖将軍寺 ・聖徳太子古戦場
椋樹山大聖将軍寺と称し、高野山真言宗に属し、叡福寺の上の太子に対して、下の太子と云う。 聖徳太子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信費山の毘沙門天に祈願し、 四天王を祀って、その加護により守屋を討って、戦勝を得ることが出来たので、ここに一寺を 建てて将軍寺と称したという。 丁末の変(ていぴ・587) |
神妙椋樹 |
神妙椋樹 右の写真は太子像の後ろ姿 | |
神妙椋(しんみょうむく) 将軍寺の境内にある椋の老樹を神妙椋と称し、周囲を玉垣でめぐらしてある。 このため神妙椋としてまつり、寺号を椋樹山と称する。 |
神妙椋樹 |
太子と四天王の由来
千四百余年の普仏教伝来を巡り排仏派の反乱軍は仏数軍に猛攻を え、太子軍は三度大敗寸る。時御歳十六歲の太子は部下四将軍 :四天王の像を刻ましめ、誓願をたて排仏軍を平定する。 「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護せ四天王の、おん 乱後難波の高台に日本仏教最始の四天王寺を建立し、仏救公伝の |
本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に四天王像をまつり、 弓矢を持つ四天王像として名高い。これ太子が四大臣を各々の四天王に なぞらえて、その各々の頭髪の中に、白膠木(ヌリデ)をもって作った四天 王像をおいて戦ったことによるものと伝えられる。 |
持国天 小野妹子 増長天 蘇我馬子 広目天 迹見赤祷 多聞天 秦河勝 |
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守屋池 将軍寺の門前にある小さな池で、傍らに「守屋池」 (トミノイチイ)に鏑矢をもって、物部守屋を射させたと |
日物部守屋大連墳(もののべもりやおおむらじふん) 『河内名所鑑記(かわちめいしょかがみき)』(延享七年.1679)や |
用明二年(587)に厩戸皇子(聖徳太子)をはじめとす
る皇子達と蘇我馬子らは、 渋河の地で物部守屋の軍勢と 戦います。稲城を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦 戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、 迹見赤橋の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利 したと『日本書紀』に記されています。 大聖勝軍寺の周辺にはそうした史跡が残されており、 嫡失塚は、迹見赤橋が守屋を射た失を埋めたと『大聖勝 |
弓代塚(ゆみしろつか) 龍華中学校の南方の田圃中にある。高さおよそ50cm、周り 4m 四方の塚状の盛り土の上に 迹見赤梼発箭地 史蹟 弓代の碑が建てられてある。 迹見赤梼が物部守屋を鏑矢をもって射た時に用いた弓を、記念として埋めた所と伝える。 |
物部守屋首洗い池 |
樟本神社
当神杜は延喜七年(西曆九0七年)の 延喜式神名帳に樟本神社三座の一つとし て記載されている式内社である。 大和時代,用明天皇の御代、、この付近 一帶は物部氏の住地であった。 物邵守屋が本拠地でる稲城の守護神 として崇めていた布都大神を布都大明 として奉祀されたものと伝えられる。 紀,記、古伝によると悪疫邪霊を祓い 病気平癒,又,鍬、觐を司る農耕,式包 神として広く村民の崇敬そ受け現在に至 っている。 八尾菊花ライオンズクラブ |
使い場(つかいば) 平野川沿いの村で、 物資の揚げ降ろしをした場所で、かつては各村ごとにあったが |
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元和6年(1620)の洪水で被害を受けた志紀郡の復興策の一環として、 当時の代官
末吉氏が計画したといわれ、柏原村の庄屋などが請け負い、船持ちとなって運行され るようになった。しかし大坂市中への直接乗り入れは、市中の川船との関係で許可さ れず、京橋で荷物を積み替えなければならなかった。 |
ここ日羅寺は、物部守屋が籠もった稲城の跡に建てられました。 名の由来は、「日羅上人」と も「日羅将軍」とも言われる百済 生まれの倭人て、大伴金村大連に随伴Lて百济に渡った火葦北国 造阿利斯登の子てす.後に百济の都城の治安守備にあたる将軍ど なり、文武両道に秀て信仰心厚く仏教への造詣の深ぃ人物てす。: 西暦五八三年、敏達天皇勅令に より师国Lた日羅の為に、この 地(阿斗)にわが国最古の寺院の一っとして日羅寺は建立されま Lた。.同じく日羅開基寺院は、鹿児島の鳥羽上皇御命名一乗寺 (末寺六五ヶ寺)を始め全国に百数十ヶ寺あり、奈良県の橘寺に は国の重要文化財、木造日羅立像にそのお姿を見ることがてき主す。 明治の廃仏毀釈の中、樟本神社分社を境内にお迎えすること て 残されました。また、熊本県には「日羅神社」もあり、将軍祭り は今も盛大に営まれ日羅寺同様、村人の厚い信仰を集めてい主す。 聖德太子は病に苦Lむ善男善女の病平癒を願い:、四天王寺に病 気治癒所、莱草園をお造りになり、自らは薬師如来立像を彫られ、 ここ日羅寺本堂に安置されたと の 伝承がおります。 |
日羅寺
禅宗の寺院です。倭人系百済官僚である日羅は、敏達天皇十二年(583)に 来朝した際に百済について不利な内容を述べたため、同行の百済使によって謀 殺されましたが、そのとき日羅が滞在した阿斗桑市がこの周辺を指すとの考え があります。日羅は聖徳太子信仰において太子と関連付けられて聖人化されま すが、当寺の縁起もそうしたものの一つとなっています。 |
祭神 布都大神 |
樟本神社 当社は式内社である。延喜式に記載されている樺本神社三座の一にして他の 二座は南木の本、北木の本に分配されている。創建の年代は詳かでないが用 明天皇の御代(約1400年前)物部守屋公が本拠地である稲村城(現光蓮寺敷地) の守護神として崇めていた布都大神を奉祀されたものと伝えられる。紀·記古伝 け現在にいたっている。 樟本神社の社名は往古境内に樟の巨木が茂っていたところからと調われてい る。 |
くすのき 八尾市指定保全樹木 |
稲城址
聖徳太子が物部守屋をその居館であった阿都に攻め寄せた時、守屋は兵を 集めて、この地に稲城を構えて立てこもり、抗戦したといわれる。稲城は稲で囲った城とか、 |
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蓮如上人 |
延喜式内社には「弓削神社二座」と記載されており、現在、旧長
瀬川跡をはさんで東弓削一丁目と弓削町一丁目に神社があります。 祭神は、饒速日命・宇麻志麻治命等ですが、かつては布都命を祀っ ていたようで、いずれも物部氏との関係深く、弓削氏が祖神を祀っ たものと考えられます。弓削町1丁目の神社の狛犬(享和四年。 (1804)は、耳を立てた愛矯のある顔で迎えてくれます。 |
弓削氏氏神とされる弓削神社。道鏡は弓削氏の一族に生まれた。 |
拝殿 |
神殿 |
拝殿 |
境内 | 神殿 |
素戔嗚尊を祀り、古くは牛頭天王と呼ばれていました。境内には “由義宮旧班”の碑があります。天平神護元年(765)称徳天皇は 大和·河内·和泉に行幸しましたが、河内では弓削行宮(仮宮)を設 けられ、弓削寺にも参拝されています。この後度々この地を訪れます が、神護景雲三年(769)には由義宮(弓削宮)を西京とし、河内は 副都として重要な地域になりました。その範囲は八尾を中心に東大阪 と柏原の一部を含む広大なものでした。また、弓削寺に塔が建設され、 天皇も由義宮に長期に滞在されるなど、道鏡にとって華々しい時期で した。しかし、翌年、天皇が亡くなると西京は廃止され、今ではその 場所も忘れ去られてしまいました。近隣の発掘調査では、奈良時代の 井戸なども見つかっており、今後新たな発見が期待されます。 |
由義寺は、「続日本紀」に登場する奈良時代の寺院で、称徳天皇が、 道鏡の出身地である弓削の地に建立しました。 称徳天皇は、由義寺 とともに由義宮の造営を進め、西京としますが、その死去により 計画は中止されました。 その後、由義寺と由義宮の場所はわからなくなっていましたが、平成 二七年(二〇一五)に始まった八尾市曙川南土地区画整理事業に伴う 埋蔵文化財発掘調査において、一辺が約二十メートルの基壇が発見 塔の基壇は一辺約20mに及び、 平城京に建立された大安寺に匹敵し、 奈良時代は、東大寺の創建や国分寺の整備など、仏教と政治が 深くかかわっていました。 由義寺は、そのような仏教政治の到達点で |
由義寺・道鏡関連情報⇒ (八尾市) |
由義寺の下層から前身寺院の「弓削寺」の遺構とみられることが明らか になった。 道鏡出身 弓削氏の寺⇒ |
延喜式内社で、古くは龍華寺の鎮守の社であったと も言われています。 祭神は物部氏の祖神である天忍穂耳命·饒速日命となっています。当初 は、旧長瀬川の東側にありましたが、天文二年(1533)に洪水で流され、 元亀三年(1572)に現在の地に再建されたと 伝えられます。境内には楠· いちょうの老樹が多いでのすが、なかでも樹齢一千年といわれる幹周り 7mの楠 (府天然記念物)があり、遠方からも望見できます。 八尾市教育委員会 文化財課 |