六波羅蜜寺地図

本堂
平清盛公の塚 空也上人立像(重文) 弁財天
 口から六体の阿弥陀様がある空也上人像(重文)は、鎌倉時代に、仏師運慶の四男・康勝(こうしょう)によって作られた。
 上人は「南無阿弥陀仏」と唱えたその一音一音が、六体の阿弥陀様の姿になったという伝説をあらわしたもの。
 13世紀初め。像高117.6cm、木造、康勝(運慶の4男)の作。
 六波羅は平家の拠点であった。当時は5200もの平家の館があった。
 空也上人(903〜72)の肖像について、左手に鹿の角をつけた杖を持ち、胸につるした鉦(かね)を撞木(しゅもく)で
打ちながら「南無阿弥陀仏」と唱えて歩いた旅姿を写実的に表している。
 空也は諸国を行脚して30代後半に京都にはいった。念仏を勤めながら道を整備したり、遺棄された遺体を火葬したり
するなど社会事業にも努めたため、「阿弥陀聖」「市聖」と夜ばれて尊敬された。
 後半生は造仏や写経などで貴族層にも布教を広げ、六波羅密寺の前身の西光寺を開いた。
 貞治2年(1363)修築の本堂はじめ、空也上人、十一面観世音、弘法大師、平清盛、地蔵菩薩、薬師如来
など藤原・鎌倉期の仏像が数多くあり、いずれも重文。
 天暦5年(951)、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国33ヶ所観音霊場の第17番札所として古くから信仰を集めている。空也上人の自刻とつたえられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。
 空也上人は醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎(ろくさい)念仏の始祖である。
 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。
宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人立像、平清盛座像、長快(ちょうかい)作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・湛慶(たんけい)座像も所蔵している。
 年中行事として、正月三が日の皇服茶(おうぷくちゃ)、8月の萬燈会(まんとうえ)、かくれ念仏として知られる12月の空也踊躍念仏(国の重要無形民族文化財)が有名である。
   
 
 文楽では、【阿古屋琴責の段】 の段は三段目の口に当たり、

元々はその後の物語の冒頭となる場面でしたが、独立した一段
とし
て上演されるようになり、今では大曲の一つとされています。

 景清探索の詮議に当たる重忠と岩永は、一方は爽やかさの中
に秘
めた深謀を持つ人物で、他方はユーモラスでありながらも
短慮な
人物というように対照をなしており、これに対峙する阿古屋
は五条
坂きっての傾城です。

 阿古屋はまず箏曲組歌『菜蕗(ふき)の琴の調べに乗せ、景清
の行方を
知らないと返答します。次に、阿古屋は景清との馴れ初
めを語り
『班女』の一節を三味線で唄いつつ、源平の合戦の後、
景清に逢え
ぬ寂しさを切々と語ります。そして、哀切な胡弓の
『相の山』
の巣籠』を奏で、高まる夫への想いとその行方を知ら
ぬ身の潔白を
訴えます。床で奏でる三曲の美しい響きに乗せ、
阿古屋の人形がま
るで楽器を弾きこなすかのように見せる耳目
ともに美しい一段です。続き 

阿古屋琴責の段続き(壇浦兜軍記より)⇒⇒⇒