嵯峨野地図

 
 嵐山の北、低い丘陵にかこまれた小平地は、嵯峨野とよばれて散策によい。
東は大沢広沢の池をへて宇多野につづき、西は小倉山や試峠にへだてられている。
竹薮、大覚寺天龍寺釈迦堂などの大寺、小さな庵、茶店が独特のふんい気をかもし出している。

差域野を切り開いた素氏

 嵯峨野には200基もの古墳からなる嵯峨野古墳群があり、秦氏の残したものと考えられている。
5世紀後半に突如前方後円墳が出現し6世紀に古墳が急増。中も蛇塚は、京都最大の横穴式石
室をもつ。
 秦氏は灌溉治水の技術に優れ、未開の差峨野を得意の土木技術て開発した。

 嵐山渡月橋の上流に、茶良時代の文献にある「葛野の大堰」(かどののおおい)は後世まて、灌漑
用水のダムとして水田を潤した。

 又織物、酒造を得意とし、雄略天皇がら太泰の地名も賜り(日本書記)蚕の社は機織の神。
大酒神社と共に、泰氏に由来する。

嵯峨野・太泰

 太秦を根拠地とする奏氏 は、日本に定住しだ渡未人の中で、最もきな集団で、応神天皇の頃に
百済から渡来した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫。

 平安時代の新撰姓氏録,(しんせんしょうじ)によれば、自分達は中国の始皇帝で有名な秦国の出
身としている。しかし、朝鮮半島系であるという說もあり、未だ明らかではない。

奏氏にフいて

 秦氏のハタは機織りのハタ。 機織りが得意だった秦氏が雄略天皇に織物をうづ高く積み上げて
献上した事から太秦(うづまさ)。桓武天皇もその勢力を得るため長岡より京都に遷都されたとい

われる。

 「秦氏には秦川勝(河勝)という大変優れた経済官僚が出て、聖徳太子の大蔵大臣のような役目
を担ったが、深草の秦大津父(はたのおおつち)も欽明朝の時、川勝のような役目を果した。

 秦氏は日本最初のインターナショナルな経済人となった」(梅原猛)

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