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大覚寺・大沢池地図

 
 大覚寺には、もともと平安時代の始めに嵯峨天皇が造営した
離宮嵯峨院に起源し、その後貞観18年(876)寺に改められ、
初代の門跡に嵯峨天皇の御孫恒寂法親王が就かれた。
日本でも最も古い門跡寺院である。
  大覚寺縁起⇒ 
   
 大門  大玄関(式台玄関)
式台玄関
 江戸時代の初め、御所より移築されたもので、
旧嵯峨御所・真言宗大本山大覚寺の玄関である。
 この式台玄関の障壁画は狩野永徳によって描かれた「松に山鳥図」である。
大沢池 名古曾の滝 放生池 天神島 菊ヶ島 望雲亭 勅使門(唐門) 鐘楼 本堂(五大堂)・舞台 御霊殿 御影堂 正寝殿 心経殿 大門 大日堂 聖天堂 五社明神 宸殿 舞楽台 護摩堂 御殿川 霊明殿 心経宝塔
参道 勅使門

勅使門

 江戸時代、嘉永年間(1848-54)の再建、門は四脚門とし、

屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風を付け、全体

は素木造りだが唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金の飾り

装飾を施している。  

 
本堂(五大堂) 本堂(五大堂) 御霊殿(安井堂)
本堂
 嵯峨天皇が天下泰平・五穀豊穣を祈念して建てられたものである。
 大沢池のほとりに建ち、湖畔に濡れ縁を張りだして月見の台となっている。
 現在の建物は、江戸時代の天明年間(1781~89)に再建されたもので、大覚寺の本堂である。
本来は境内中央勅使門の正面の位置にあったが、大正14年(1925)大正天皇即位式の饗応殿が
下賜(かし)され御影堂(心経前殿)として建築されたため現在地に移築された。  
 五大明王を祀っている心経の本山。
 御本尊として五大明王が祀られたのは嵯峨天皇と弘法大師の深い縁によるところである。
 不動明王を中心とした降三世明王(ごうざんぜ)・軍荼利明王(ぐんだり)・大威徳明王(だいいとく)・金剛夜叉明王
(こんごうやしゃ)の総称で五代尊ともいう。
 都が京都(平安京)に移ると社会の一大変革にともなって諸大寺には五大明王が祀られ貴族から
庶民にいたるまで国家社会の平和をを祈願し、やがて災害を除く護身の信仰が盛んになった。  
御霊殿(安井堂)
 京都東山の地にあった「安井門跡蓮華光院の御影堂」を明治4年(1871)に移築した建物で江戸時代中期の様式を表している。
 後水尾天皇の僧形像が祀られ、格天井の鏡板には密教法具の外、牡丹・杜若等の草花が、折上部には雲龍が極彩色の画で
描かれている。
御影堂(心経前殿)
大正14年(1925)御所から移築された建物。
舞楽
 大覚寺は、古い歴史と伝統のある般若心経写経の実践道場である。
 弘仁9年(818)に飢饉が起り疫病が流行した時、
嵯峨天皇は弘法大師の勧めにより般若心経を御写経になり、
弘法大師と共に祈願されたところ、霊験あらたかに悪病が退散し、
多くの尊い命が救われたといわれている。
この時の御写経が心経殿に今も勅封心経として奉安されている。
 1200年後の今日も継承され写経し祈願を凝される人々は跡を絶たない。
   
 正寝殿
狩野派障壁画
 正寝殿
ここには12の部屋があり、上段の「御冠の間」は13世紀後半鎌倉時代に
後宇多法皇が上皇として院政を執られた御座所である。
 またここは明徳3年(1392)室町時代の初め永年の南北戦争争乱を治めるため、
南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇による講和が成立したところである。
 幾度となく改築されているが、現在は桃山時代様式の書院造りの建物である。 
   
 宸殿  宸殿
 内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅梅梅図」などの豪華な襖絵で飾られており、
桃山美術の代表的な作品である。 
宸殿 宸殿の右近の橘(手前)・左近の梅(奥)
 宸殿は、江戸時代の初め延宝年間(1673~81)に後水尾天皇の中宮東福門院和子
(徳川二代将軍秀忠の娘)が使用していた女御御所の宸殿を移築したものである。
部屋は五つに分かれ、正面牡丹の間は格子が高く天井には折上小組格天井になって
いる。
 前面の庭には一面に白川砂が敷かれ、大海を表しており、正面の「右近の橘」
「左近の梅」が旧御所の名残りをとどめている. 
霊明殿 漆・丹塗りの霊明殿
 昭和11年の2・26事件の凶弾に倒れた斉藤実第30代内閣総理大臣は昭和恐慌の折、
国民の自力更生を願って昭和3年に東京都沼袋に自費で日仏寺を建立した。
 その本堂を、大覚寺第52世草繫全宜(くさなぎぜんぎ)門跡が
昭和33年に当地に移築し、霊明殿としたもである。
正面には御本尊の阿弥陀如来を右側には草繫門跡をお祀りしてある。
宸殿 心経殿 村雨の廊下
 入口の格子戸は蔀(しとみ)といい、
その留金部分には蝉の装飾がある。
  
 現在の御堂は大正14年に再建されたもので、
法隆寺の夢殿を模した八角形で高床式のコンクリート造りの建物である。
殿内には 嵯峨天皇はじめ、六天皇(後光厳・後花園後奈良正親町光格)の
写経が奉伺されている。
 この勅封写経は天皇の命により封印をした経典として奉られ60年に一度開封される。
 正寝殿・宸殿・御影堂・五大堂をむすぶ板敷渡廊下は、柱を雨に、
屈曲する廊下を稲妻に見た立てて「村雨の廊下」とも「稲妻の廊下」ともよばれている。
 この建築様式も大覚寺が御殿のおもかげを伝えていると云われる。
大玄関(式台玄関)
宸殿牡丹の間 宸殿
宸殿 宸殿
   
 心経信仰の霊場・芸術文化の殿堂・嵯峨御流華道の根本道場である 
 
 護摩堂・心経宝塔
大沢池
 これはもと嵯峨天皇が弘仁年間(810~824)に造営された離宮「嵯峨院」の苑池(えんち)の一部で、周囲い1kmの日本最古庭苑地である。現在大覚寺境内に属しており、中国の洞庭湖になぞらえて「庭湖(ていこ)」ともいい、作庭当時は泉・滝・名石等の美を極めた池泉舟遊式庭園であった。今なお池中には、菊ガ島・天神島の二島と、巨勢金岡(こせのかなおか)が配置したとされる庭石湖がり、この二島一石の配置は華道嵯峨御流の基本形に通じている。広々とした大陸的雰囲気を漂わせている。湖畔には弘法大師が離宮の鎮守として勧請したと伝えられる五社明神のほか、茶室「望雲亭」・心経宝塔・石仏などがあり、また、桜樹が多く、花の名所であるとともに、古くより月の名所としても名高く、秋の観月に訪れるひとも多い。この池の北は嵯峨院の建物があった場所で、北約50mの所に嵯峨院滝殿の石組み跡「名古曾滝」がある。
 観月では、龍頭船・鷁首(げきす)船などの船が浮かび、池畔には箏や尺八の調べが流れ、昔の宮廷人の月を愛でる姿が再現される。大沢池は、猿沢池、石山寺とともに日本三大名月観賞地とされている。

 大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の

造営にあたって、唐(中国)の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる。

 動画      大沢池⇒⇒⇒
大覚寺 大沢池⇒⇒⇒ 
全動画⇒⇒⇒ 
 
 名古曾の滝跡

名古曽の滝跡

 離宮嵯峨院の滝殿庭園内に設けられたもので、『今昔物語』では百済川成が作庭したものと伝えられる。平成6年からの

奈良国立文化財研究所による発掘調査で、中世の遣水が発見され、現在の様相に復元された。 

 鎌倉時代、後宇多天皇が大覚寺を復興された際、涸れていた名古曾滝や遣水(やりみず)の一部が改修整備され、
水が流れるようになった。礫(れき)を敷き詰め、景石(けいせき)や小さな中島が設けられるなど中御所内の庭の一部となっていた。
 やがて、これらの遣水も埋まり、滝の石組みが僅かにすがたを留めるのみとなった。
  滝の音は絶えて久しくなりぬれど
      なこそ流れてなお聞こえけれ
と詠んでいる。
藤原公任(ふじわらのきんとう)
 平安時代(966~1041)の歌人
 諸芸に通じ詩歌や管弦の才を兼備、また故実に詳しく、書は古筆として珍重されている。「和漢朗詠集」や拾遺集などの撰に携わる。
三十六歌仙の一人。
百人一首55⇒⇒⇒ 
 大覚寺の東に接し、嵯峨天皇の離宮であったころは、その庭内に含まれていた。
大小二つの池がつづく。南東は広沢池を望み、西は嵐山一帯を一目に見られる。
わが国の古園中最も知られたもので、延喜のころすでに有名であった。
名古曾(なこそ)滝跡は大沢池の北約50mにあり、日本最古の石組みとして知られている。
また、池辺には鎌倉時代の石仏がある。
   
 心経宝塔 
茶席「望雲亭(ぼううんてい) 大沢池に浮かぶ菊ガ島
 嵯峨天皇と空海が秋の一日大沢池に舟を浮かべ、
茶を汲み清遊され夕方空海が山に帰るにあたり嵯峨天皇が詠まれた漢詩の中より名付けられた。

心経宝塔

 昭和42年(1967)、嵯峨天皇心経写組1150年を記念して建立される。基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を

安置する。宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像を祀る。大沢池のほとりに位置し、嵯峨野の四季の風景にとけあった朱

塗りの端正な姿が美しい。 

天神島·菊ヶ島·庭湖石

 池中には天神島·菊ケ島と庭湖石があり、この二島一石の配置が華道嵯峨御流の基本型に通じている。池のほとり

には、茶室望雲亭、心、経宝塔、石仏、名古曽の滝跡があり、国指定の名勝地になっている。 

 大覚寺の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、真言宗大覚寺派の本山で、
心経写経(しんぎょうしゃきょう)の根本道場・いけばな嵯峨御流(ごりゅう)の総司所でもある。
 門跡寺院とは、天皇又は皇族が住職に就かれた寺院のことである。
平安時代、嵯峨天皇の離宮嵯峨院が建立され、弘法大師も幾度も立ち寄らた。
その後、嵯峨天皇の皇女正子内親王(淳和天皇皇后)が清和天皇に上奏して大覚寺に改め、
嵯峨天皇の孫にあたる恒寂法親王が初代の住職に就かれた。南北朝の時代には、南朝の御所となり、
ここで争いに終止符を打つ講和会議が開かれた。また、現在では、近畿三十六不動尊霊場の第十三番札所となっている。
 ここはもと嵯峨天皇の離宮があった所で、譲位後、仙洞御所となったが、貞観18年(876)離宮を改めて寺とし、
淳和天皇第二子の皇子恒寂法親王を開基とし、大覚寺と名づけた。その後代々法親王が入って後を継がれた。
後嵯峨天皇・亀山天皇も譲位後ここに住まわれた。
 現在の主な諸堂は御影堂・心経奉安殿・本堂・宮殿・宸殿など、これらが回廊で結ばれている。
 大覚寺と源氏物語の関わり
大覚寺は、平安時代、嵯峨天皇が建立された嵯峨離宮を起源とするが、
その嵯峨天皇がご自身の御子様達の巨籍降下に際して「源」姓を授けたのが「源氏」の始まりであり発祥である、と言われている。
 源氏物語の主人公「光源氏」のモデルとされる「源融」は、嵯峨天皇の第十二皇子である。
 源氏物語「松風」の巻では、「造らせ給う御堂は、大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺也」とあり、
この御堂は、源融が建立した「栖霞観(せいかかん)」をモデルとしたようであり大覚寺境内にあった。(現在では、清凉寺境内となる)
 源氏物語の筆者である紫式部が「式部日記」の中で、嵯峨野の月はたいへん素晴らしく、
そのなかでも特に素晴らしいのが大覚寺の大沢池の月であると紹介されている。
人物源融⇒⇒⇒
大覚寺青葉祭(降誕会)

 弘法大師の誕生を祝って行われる法会。花々で飾った花御堂に、童形の弘法大師像「稚児大師」をまつり、

僧侶による法会が巌修されます。花御堂は法会後に外陣に安置され、参拝者も大師像に甘茶をかけて祝

うことができます。また御影堂では、書といけばなの展示が行われるほか、甘茶の無料接待もあります。

嵯峨菊七・五・三仕立て
花の数を下から七五三と仕立てるのは嵯峨菊だけの流儀で天地人を表す。
嵯峨菊は一鉢に三本、同じ色の花でまとめ、混色しない。
微妙なのは葉の色の気配。一番下は秋すえの黄ばみ、真ん中あたりが緑、
上が淡い緑でそれぞれ四季のうつろいを演出する。
 
 
小野篁と珍皇寺 秀吉は二度、大地震に遭遇した