第8代 孝元天皇(こうげん)地図

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剣池と孝元天皇陵であるが、地図では石川池。陵の周りの池が剣池であり、石川池は剣池を拡張した外側である。水を張った状態では、工事の跡はわからない。
父…孝霊天皇(第一皇子)
母…細綏(くわしひめ)
誕生…前273年(孝霊天皇18年)
御名・異称…大日本根子彦国牽(おおやまとねこひこくにくるのみこと)
皇后…命(うつしこめ)
立太子…前255(孝霊天皇36)1.1
即位…前214(孝元天皇元年)1.14  在位年数…56
崩御…前158(孝元天皇57)9.2  年令…115才
皇居…軽境宮(かるのさかいはら)  年号…━━
〇宮都をめぐっては「古事記」が「坐軽之堺原宮、治天下也」とし、「日本書紀」が「遷都於軽地、是謂境原宮」と記されている。「帝王編年記」によれば、宮の伝承地は大和国高市郡で、現在の奈良県橿原市大軽の地と推定される。
〇この時代、天皇は大和地方の豪族との姻戚関係を重視したとみられ、孝元天皇の場合も皇后のほかに二人の皇妃を迎えている。天皇自身の事績についてはまったく伝えられていない。

陵墓…(つるぎのいけのしまのえのみささぎ 中山塚13号墳)   前方後円墳
所在地…奈良県橿原市石川町字剣池
〇「延喜諸陵式」は「兆域東西二町、南北一町、守戸五烟、遠陵」とあり、規模としては小さい。軽宮(大軽町付近)より東方へ約500mの石川町剣池に現在御陵が存在する。御陵の所在する地を中山といい、南側を背山となし、東・西・北の三面は池で囲まれ、巨大な弧状池をなし、北方より望見するに雄大である。丁度、池の中に島状の山が存在しているかのようなので、中山の名がついた。この池を剣池(現・石川池)と称している。
孝元天皇を奉葬後310余年後の応神天皇11年10月に灌漑のために渡来人の土木技術を応用して開削され、剣池と名づけて、陵号とされたものである。

〇古代において蓮の花が華麗に咲いていたことが「万葉集」に見え、最近までこの情景がみられた。
〇孝元天皇陵について
 『日本書記』は「剣池嶋上陵」
 『古事記』は「剣池之中岡上」
 『延喜式』諸陵寮は「剣池島上陵
 
 『元禄山陵図』に描かれた孝元天皇陵

現陵の陵域には三基の古墳があり、そのうち
前方後円墳と見られる中山塚が孝元天皇陵と
れる。
所在地が不明となっていたが、元禄の修陵で
現在の陵が孝元天皇陵とされ、陵域にある三つ
の塚のうち「中山塚」あるいは「御陵山」とされ
るものが矢来で囲われ孝元天皇陵とされてい
る。文久の修陵では三つの塚全体が柵で囲われ
ており、谷森善臣著『山陵考』は「中山塚」以外
の二つの塚について 「倍家の類にはあらじ、別
に御陵に故ある物なと蔵めたりし所なるへ
し、必ず粗略に為まじき処なるべし」とする。  

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剣池(つるぎいけ)
日本書紀応神天皇11年の条に、この池を作ったことが見えますが、第8代孝元天皇の陵は剣池嶋上陵ですから、この記事は修築か拡張であろうする記があります。いずれにしても灌漑用水として利用されたことはたしかです。万葉集に次のような歌があります。

みはかしを 剣の池の 蓮葉に たまれる水の
行方なみ 我がする時に 逢ふべしと
逢ひたる君を な寝そと 母聞こせども 我が心
清隅の池の 池の底我は忘れじ
たたに逢ふまでに
  作者不詳(巻第13−3289)

この池については皇極天皇の夏に地中の蓮に一の茎に二つの花がさいてこれが蘇我氏の繁栄を予告するものと噂されたことを伝えています。その蘇我氏が翌年に亡くなるのは皮肉というほかありません。  橿原市教育委員会