第2代 綏靖天皇(すいぜい)地図

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父…神武天皇(第三皇子)
母…(ひめたたらいすずひめ)
誕生…前632(神武天皇29)
御名・異称…神渟名川かんぬなかわみみのみこと)
皇后…(いすずひめ)
立太子…前619(神武天皇42)1.3  
即位…前581(綏靖天皇元年)1.8  在位年数…33
崩御…前549(綏靖天皇33)5.10  年令…84
皇居…葛城高丘  年号…━━

〇綏靖天皇には、二人の兄がいた。長兄が野心を抱き二人の弟を殺そうとしたが、逆に二人の弟に殺害された。その際次兄は矢が打てず弟が矢を射った。それを恥じた次兄が弟に天位につくことを勧めたと「日本書紀」にある。そして、兄は神に仕える役目を負うことになった。
〇この綏靖から開化の八代にわたって、「古事記」「日本書紀」にはただ系譜と都や山陵を簡単に記し、事跡が全く見られないところから欠史八代と位置づけられている。
〇綏靖天皇は都を葛城高丘宮(かつらぎたかおか)に移した。「和名類聚抄(るいじゅうしょう)」によれば、宮の伝承地は大和国葛上郡高宮郷で、現在の奈良県御所市周辺に擬定されている。

陵墓…
(つきだのおかのえのみささぎ 塚山古墳)       円墳
所在地…奈良県橿原市四条町
〇「日本書紀」によると畝傍山の北に葬るとあり、「延喜諸陵式」には桃花鳥田丘上陵とある。現陵は平地にあるが、丘の上の陵と陵号があるので、記・紀編纂の頃の治定陵とは違っている可能性が高い。
〇現陵は八角形墳で、神武陵の北東約200mに位置する。
1878(明治11)塚根山の現陵を治定された。近世には、畝傍山の周辺で転々としていた。
御陵は南面し、高さ3m,径16mの規模で、墳丘裾部を八角形に石柵をめぐらしている。
さらに,その外周に土塁を設けて方形に石棚を設けている。
〇「延喜諸陵式」に「兆域東西一町、南北一町,守戸五烟、遠陵」とあり、古代における歴代天皇陵の兆域としては小規模である。〇「和州巡覧記」にも「畝傍山乾方鳥田陵あり、是れ綏靖天皇…」とあり、いわゆる鳥田はスイゼン塚の一名として把握している。「山陵志」は綏善山を鳥田丘と名づけ、鳥田丘は即ち桃花鳥田丘であることをもって、宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵の近辺にあったものを改葬して、旧号を称するようになったのではないかとしている。
〇畝傍山の西北にあるスイセン塚(主膳塚)を綏靖陵に充てられたこともある。このスイセン塚は前方部がやや細長い西面する前方後円墳で、考古学的に4世紀代の古墳と考えられ、紀元前在位の綏靖天皇陵にはなり得ない。
多神社   大物主の神の御子  古墳 
大和へ、神武東征 天皇と宮の名  八角墳 
鴨都波神社 続き 欠史八代 六御県ー古代天皇家の基盤ー  

 綏靖天皇の陵について、『日本書紀』は「桃花鳥田丘上陵」, 『古事記』は「衝田岡(つきたのおか)」、『延喜式

諸陵寮は「桃花鳥田丘上陵」とする。 

 中世以降、所在地不明であったが、元禄の修陵に際して畝傍山西北の「スイセン塚」(主膳塚)とされた。その際、
現在の綏靖天皇陵は神武天皇陵とされていて、文久の修陵で神武田が神武天皇陵とされた。
明治十一年(一八七八)二月に、現在地が陵所とされた。