多神社(おおじんじや・多坐弥志理都比古神社・おおにいますみしりつひこ))地図
小杜神社(こもりじんじゃ)地図
姫皇子命神社(ひめみこのみこと)地図
秦楽寺(じんらくじ)地図
天神社地図
念仏寺地図
常光寺地図
正法寺地図
浄土寺地図
観音堂地図
子部神社 地図


多(おお)氏と秦(はた)氏 多神社のあたり

 太子道を南に延ばすと多神社付近にくるが、今日ではその道筋はわずかに残る。

神社へは、近鉄橿原線笠縫駅(かさぬい)で下車して徒歩二○分ぐらい。この神社は
式内社で、正式には多坐弥志理都比古神社という。墓誌が出土した、『古事記』の編者、
太安万侶の一族である多(太)氏の居住地はこのあたりである。古代十市郡飫富(おお)
郷の地。

 多神社は、古くは方六町の社域をもったと伝え、現在の鳥居は東の下ッ道近くの寺川

河畔にある。その向かいの小杜神社の祭神は太安万侶。学問の神という

 この多神社を中心として、弥生時代から古墳時代にかけての多遺跡がある。昭和五

三年の発掘に際して、木製の刀のつばや、火切りキネの腕棒、管玉·勾玉などが出土

した。これらの遺物が南北約五メートル、東西約三メートル、深さ約一メートルの長

方形の掘りこみ穴から検出されたが、何らかの祭事のために設けられたものかという

想定もなされ、多神社との関係からも興味をひく。

 笠縫駅の西北、田原本町秦庄 に秦楽寺という寺がある。寺伝によれば、秦河勝

建立で、本尊の千手観音は百済王が献じたものという。聖徳太子秦河勝を脇侍とす

る。秦河勝は山背の葛野郡(かどの)を本拠とし、推古一一年(六〇三)に聖徳太子より
仏像を賜り、蜂岡寺(広隆寺)をつくっているが、この秦庄も秦氏と関係があったのだろう。

境内にある笠縫神社の元の社地は、西北の新木で、この地を崇神紀の「倭の笠縫邑

にあてる説がある。
  飛鳥への古道  千田念

多地区の概要

 多地区は、橿原市に隣接する田原本町の最南端にあり、東には寺川、 西には飛鳥川に

囲まれた田園殺倉地帯であり、日本最古の神社として知られている多神社がある。

 その多神社の社伝によると、 神武天皇の皇子八井耳命がこの地に来られ天神地祇を

祀るという由緒を持ち平安時代の延喜式に社名が載る式内でも屈指の古社であり、 そ

こに住む地域住民は古い文化を継承している。

 多地区の歴史は大変古く、発掘·調査された多遺跡によると、奈良盆地のほほ中央、

標高約 55mの沖積地の微高地上に存在する弥生時代から中世に至る時期の大規模

な遺跡である。

 さらに多遺跡は、弥生時代の拠点的な環濠集落で、環濠に囲まれる範囲は、長軸

350 m、短軸 300m と推定されている。

これまでに24次に及ぶ調査が実施され、弥生土器、木器、銅剣などが出土している。

出土品の一部は多神社の展示館に展示されている。

そして 環濠はコンクリート水路になりながらも現役であり、集落の周囲をとりまいて中世

からの環濠集落の姿はほぼ保たれている。

 飛鳥と斑鳩を最短で結んだ古代の街道である太子道(筋違道)が集落の西側を南北

に通っているのも多地区の特筆の一つといえる。

多地区の面積

 約 74.6 町(0.74kmí)


多地区の神社

 多坐弥志理都比古神社(多神社)

 小杜神社
 皇子神命神社(三ノ宮)
 姫皇子命神社(村社 氏神)

多地区の寺院

 融通念仏宗 光明山 念仏寺

 真宗 興正派 常光寺


多地区の観音像

 田原本御仏三十三ヶ所

   第二十三番 多観音堂  第二十四番 念仏寺


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
多神社
 本殿は4殿形式で

祭神は東の第1殿が神武天皇、第2殿が神八井耳命(かむやいみみのみこと)、
第3殿が神淳名川耳命(かむぬなかはみみのみこと・綏靖天皇) 、
第4殿が姫御神(玉依姫) 。4社とも同規模で、東西2.5 m、南北2.2mの一間社春

日造り。第1殿と第2殿に「享保20年(1735)柱立」の墨書がある。

   
 拝殿  本殿 神武天皇 神八井耳命 綏靖天皇 玉依姫
 
   
二の鳥居 正一位勲一等多大明神 
 
   
   
 太安万侶の一族である多氏(おお)の本拠地とされる地に建ち、多氏の祖先である神八井耳命
(神武天皇の皇子)を祀っている。
 皇位を弟の綏靖天皇に譲って、祭りを司ったことが「古事記」に記される。

 かつて国中(くんなか)と呼ばれた奈良盆地の中央部の地に鎮座している。

『古事記』によると、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が亡くなった後、子の当芸志美々命が神武天皇

の皇后の比売多々良伊須気余理比売と結婚し、異母弟である神八井耳命たちを殺そうとした。比売多々

良伊須気余理比売は謀反を知らせる歌を神八井耳命らに送り、歌を読み解いた神八井耳命らは逆に当芸

志美々命を討ち取った。その際、当芸志美々命を殺せなかった神八井耳命は弟の神沼河耳命に皇位を譲

り、自らは祭事を司る者となった。神社名の彌志理都比古とは、神八井耳命のこととされる。

多は、太安万侶を出した多氏が住んでいた地で神八井耳命は多氏の祖先とされている。

 元明天皇の命で『古事記』を撰上した太安万の一族である多氏(安万侶の時期に「多」

の字を使用した)の本拠地とされる地に建ち、多氏の祖先である神入井耳命ほかを祀っている神社です。

稗田阿礼(ひえだのあれ)は天武天皇の舎人で、抜きん出た記憶力を認められ、
『帝紀』、『旧辞』などの伝承を覚え習うよう
に天皇から命じられました。稗田阿礼については、

「『古事記』成立にあたって、過去の資料を記憶し□頭で伝えた人」ということ以外はほとんどわかっ

ていません。命じた天武天皇が亡くなり、『古事記』編纂事業は未完成のまま宙に浮くことになっ

てしまいました。

ところが、中断されていた『古事記』編纂事業が再び動きだしました。太安万侶は稗田阿礼から

『帝紀』『旧辞』などに伝わる伝承を聞き取り、記録整理することを元明天皇に命じられたのです。

記録に残っていない稗田阿礼とは対照的に、太安万侶は居住地や位階勲等、そして亡くなった日ま

墓誌などで判明しています。墓誌からわかる居住地は現在のJR奈良駅付近でした。
 なら記紀・万葉 名所図会 より

太安万侶   多神社  賣太神社
太安万侶墓  柿本人麻呂・万葉集第二期
の代表歌人
 
 




小杜神社
   
 
 
   



姫皇子命神社

延喜式内社 旧城下郡多 姫皇子命神社

旧村社 祭神多 姫皇子命

 多座彌志理都比古神社の摂社で、「大和志」十市郡新廟の項に

 「姫皇子命神社 在ニ多社東一今称二鎮守」と比定され、延長五年(927)成

立の延喜式神名帳に記載された古社である。

神名帳十市郡大(おお)社の四皇子神の一「姫皇子命神社」とされ、「大和志」に

俗に鎮守と称し、現在大字多の氏神である。

 「五郡神社記」は本社二座と四皇子神を意富(おう)六所神社ともいった。

多の歴史

弥生時代前期~古墳時代後期多遺跡

飛鳥時代    百済系渡来人多く住む(団栗山古境

          太子道が多集落の西側を通る

奈良時代    下ッ道が多集落の東側を通る

平安時代中期 「和名抄」の十市都飫富鄉比定

           延喜式神名帳に4社記載

延久二年(1070) 興福寺雑役免帳「太庄四町」

貞和三年(1347) 興福寺段錄段米帳に「多郷九町三反」

応永六年(1399)  興福寺段錢段米帳に「多郷九町三反」

永享元年(1429) 公方御下向段錢方引付に「多郷九丁三

           反四貫三百廿五文」

江戸時代~明治22年 十市郡多村

明治22年~昭和31年 磯城郡多村

昭和31年~現在    磯城郡田原本町大字多

    田原本町観光協会

   
延喜式内社 旧城下郡多 姫皇子命神社   寝殿
 
 拝殿
 



秦楽寺

 当寺の創建は、大化三年 (六四七)聖徳太子の家臣、秦河勝
によると伝えられ、平安時代には弘法大師が宿し「三教指帰(さ
んごうしいき)」を著しとも伝えられる由緒ある寺である。真言律宗

に属し、千手観音が本尊で、聖徳太子·秦河勝を脇侍とする。

 付近一帯は大字秦庄といい、秦氏の居住地であった。秦楽寺の
「楽 」は神楽や猿 (申)楽などの「楽 」であり、秦楽寺とは、秦の
楽人の意である。「風姿花伝」の大和の申楽四座の由来を記した
条に、秦楽寺の門前に金春屋敷があったとあり、金春家は秦河勝
の末裔と称していた。

 表門は珍しい土蔵門で中国風造りである。

境内に、大和三楽寺の三池の一つである梵字「阿」をかたどった
阿字の池がある。

 寺伝によれば弘法大師が「三教指帰 」というお経を執筆中、蛙の
鳴声が喧(けたたま)しかったのでこれを叱ったことから、それ以来
この地では蛙の声はきかれないという。

  田原本町  

 
 表門 中国風造りの土蔵門
   
梵字池  阿字の池 ⇒ 百済寺  
     
   
   
   
 十三重塔  歯龍王神
 

田原本歴史遺産田原本の芸能を訪ねて No.2

 秦楽寺金春屋敷跡 田原本町大字秦楽寺

 円満井座猿楽の祖先を秦河勝及び子孫秦氏安を中興の祖と云う伝承の、秦河勝が
創建した秦楽寺の門前に「金春屋敷」の伝承がある。

 これは、世阿弥の『花伝書』に「此門前(秦楽寺) 二金春有=屋敷-、其内=天照大神ノ
御霊八咫鏡陰ヲ移シ給ト云伝也。」による。

 大和猿楽の一つ円満井座(後の金春流)は興福寺に属し、大和猿楽は奈良時代の
散楽戸以来、平安時代の寺奴の猿楽、春日若宮祭の猿楽などで活躍したと思われる。

猿楽の能は、寺院芸能である呪師や延年、 声明などの影響を受け、今様、白拍子
の民間の芸を吸収しつつ発展していった。「花伝書」「円满井座法式」は、円満井座猿楽
の祖先を秦河勝に求め、又、「本朝文粋」は、秦河勝の子孫秦氏安を中興の祖と云う。

 金春禅竹(応永十二年(1405) ~文明三年頃(1470)は、別名を七郎氏信、竹翁、
賢翁禅竹、竹田太夫、金春太夫、禅竹は法名で世阿弥の娘婿。 大和猿楽の金春座の
中興、法名で世阿弥の娘婿。大和猿楽の金春座の中興、 能役者名手と云われ、又、
優れた能作者で作品に「芭蕉」「雨月」「玉蔓」「定家」、著述書に「六輪一露秘注(文正本)」

がある。

 なお、田原本町にこは、 この秦楽寺金春屋敷跡の他に、西竹田に金春屋敷跡の伝承
がある。金春禅竹が竹田(西竹田)に構えたので「竹田座」と称したのと、元竹田村(西竹
田)から分村した隣村の大字十六面に 昔、十六の面が天降ったと云う地名口伝がある
ことによる。

 又、村屋坐爾富都比売神社に関わる「楽戸郷」や味間補厳寺の世阿弥参学の寺、
補厳寺へ世阿弥及び妻·寿椿の供養田寄進と、大和猿楽や能·狂言に関わる歴史的

遺跡が多く残されている。今後、これらの歴史遺産を継承発展をさせていく、 住民活動
に繋げたい。

  平成23年度 No田観 72 田原本町観光

 
 秦河勝像 明暦元年(1655)
 
 能「花筺」 シテ 高橋忍(今春流)

秦楽寺の歴史

大化三年(647) 秦河勝の創建「秦楽寺略縁紀」

          又、一説に推古天皇の御字(554~628)創建の説あり

          本尊千手観世音菩薩立像は百済国より聖徳太子に献じられ、
           秦河勝に賜ったと伝えられている。

大同二年(807)弘法大師は、秦楽寺の地に霊地を感じ阿字池を築造。
         又、大師はここで「三教指帰」を選述。この頃、天台、真言両宗
         の僧坊が軒を並べ顕密二教の霊場。

元亀元年(1570) 松永久秀、秦楽寺城を攻略、この時、秦楽寺の堂宇も焼失。



天神社
     
   
 


念仏寺
   
 
 

常光寺

 



正法寺
 
 真宗 大谷派 上宮山正法寺


浄土寺
 


観音堂
   
 
 
 



子部神社(こべ)

 多坐弥志理都比古神社の境外さ摂社。祭神は小子部命(ちいさこべ)。

螺嬴(すがる)が子どもを養育した場所が飯高の付近とされており、子部の里
といいました。

この子部神社から100m程西にも同名の子部神社があり、小子部命を祀ってい
ます。   小子部⇒⇒⇒