多神社(おおじんじや)地図
(多坐弥志理都比古神社・おおにますみしりつひこ)

子部神社 地図

多神社
 本殿は4殿形式で

祭神は東の第1殿が神武天皇、第2殿が神八井耳命(かむやいみみのみこと)、
第3殿が神淳名川耳命(かむぬなかはみみのみこと・綏靖天皇) 、
第4殿が姫御神(玉依姫) 。4社とも同規模で、東西2.5 m、南北2.2mの一間社春

日造り。第1殿と第2殿に「享保20年(1735)柱立」の墨書がある。

 太安万侶の一族である多氏(おお)の本拠地とされる地に建ち、多氏の祖先である神八井耳命
(神武天皇の皇子)を祀っている。
 皇位を弟の綏靖天皇に譲って、祭りを司ったことが「古事記」に記される。

 かつて国中(くんなか)と呼ばれた奈良盆地の中央部の地に鎮座している。

『古事記』によると、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が亡くなった後、子の当芸志美々命が神武天皇

の皇后の比売多々良伊須気余理比売と結婚し、異母弟である神八井耳命たちを殺そうとした。比売多々

良伊須気余理比売は謀反を知らせる歌を神八井耳命らに送り、歌を読み解いた神八井耳命らは逆に当芸

志美々命を討ち取った。その際、当芸志美々命を殺せなかった神八井耳命は弟の神沼河耳命に皇位を譲

り、自らは祭事を司る者となった。神社名の彌志理都比古とは、神八井耳命のこととされる。

多は、太安万侶を出した多氏が住んでいた地で神八井耳命は多氏の祖先とされている。

 元明天皇の命で『古事記』を撰上した太安万の一族である多氏(安万侶の時期に「多」

の字を使用した)の本拠地とされる地に建ち、多氏の祖先である神入井耳命ほかを祀っている神社です。

稗田阿礼(ひえだのあれ)は天武天皇の舎人で、抜きん出た記憶力を認められ、
『帝紀』、『旧辞』などの伝承を覚え習うよう
に天皇から命じられました。稗田阿礼については、

「『古事記』成立にあたって、過去の資料を記憶し□頭で伝えた人」ということ以外はほとんどわかっ

ていません。命じた天武天皇が亡くなり、『古事記』編纂事業は未完成のまま宙に浮くことになっ

てしまいました。

ところが、中断されていた『古事記』編纂事業が再び動きだしました。太安万侶は稗田阿礼から

『帝紀』『旧辞』などに伝わる伝承を聞き取り、記録整理することを元明天皇に命じられたのです。

記録に残っていない稗田阿礼とは対照的に、太安万侶は居住地や位階勲等、そして亡くなった日ま

墓誌などで判明しています。墓誌からわかる居住地は現在のJR奈良駅付近でした。
 なら記紀・万葉 名所図会 より

太安万侶   多神社   賣太神社
太安万侶墓  柿本人麻呂・万葉集第二期
の代表歌人
 
 





子部神社(こべ)

 多坐弥志理都比古神社の境外さ摂社。祭神は小子部命(ちいさこべ)。

螺嬴(すがる)が子どもを養育した場所が飯高の付近とされており、子部の里
といいました。

この子部神社から100m程西にも同名の子部神社があり、小子部命を祀ってい
ます。   小子部⇒⇒⇒