第25代 武烈天皇 (ぶれつ)地図
父…仁賢天皇(第一皇子) |
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武烈天皇が皇太子だったころ、物部麁鹿火(あらかひ)の娘の影姫と、海石榴市の歌垣で逢う約束をしていた。そこへ平群鮪(へぐりのしび)という男が現れた。太子は、鮪と歌のやりとりをしているうちに、鮪が影姫と既にただならぬ関係にあることを悟った。太子は鮪とその父が普段から無礼な態度だったことを思い出し、怒りを爆発させ、大伴の兵に命じ鮪を奈良山まで追いかけて討ち取らせた。あとを追いかけて鮪のなきがらを見た影姫は、悲しみ泣き狂ったという。 石上(いそのかみ)布留(ふる)を過ぎて、薦枕(こもまくら)高橋過ぎ、物多(ものさは)に大宅(おおやけ)過ぎ、春日(はるひ)春日(かすが)を過ぎ、妻隠(つまごも)る小佐保(をさほ)を過ぎ、玉笥(たまげ)には飯(いひ)さへ盛り、玉ひもに水さへ盛り、泣きそぼち行くも、影姫あわれ(日本書紀) |
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影媛は、以前から交際していた平群の 鮪が、太子の命で大伴金村の軍に乃楽山でころされたのを悲しみ、布留から乃楽山まで行って、夫の葬いをした。櫟本は、山の辺の道と都祁山道(つげやまみち)との衢(ちまた)に当たり、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝であった。 媛はその山の辺の道を、泣きそぼちつつ行ったのであろう。都祁山道をはさんで、南には物部氏、北には和珥氏がおり、この辺りが勢力の接点であった。武烈天皇の母春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのきさき)は、雄略天皇が和珥臣深目(わにのおみふかめ)の女童女君(むすめのおみなぎみ)に生ませた女である。影媛は、物部の麁鹿火大連の女である。
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