海柘榴市観音地図


 観音堂内には、二体の石仏が安置されており、
向かって右側が長谷寺式十一面観音立像、左側が
聖観音菩薩立像である。
 かって海柘榴市(つばいち)が置かれていた。
(古代の市場)
 そこにはうっそうと茂った椿の林があった。古代
人は、海柘榴の樹を霊木として尊んでいた。そのた
め、その下で商取り引きをすれば、ごまかされるこ
とはないと考えられていた。
 海柘榴:椿と書かずに海柘榴と表記することが多い
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 海柘榴市には河港があった。初瀬谷から奈良盆地に流れ込む初瀬川(大和川)は、三輪山の山麓沿いを流れる。
初瀬川は磯城郡川西町佐保川と合流している。
 海柘榴市の河港では、大和川水運を利用する河舟が発着した。推古16年(608)8月、小野妹子が唐から伴った
中国の使者隋使裴世清らの一行は海柘榴市の衢(ちまた)で歓迎を受け、飛鳥の小墾田宮に至った。
 斑鳩付近から河舟に乗り、海柘榴市の河港に至ったと推定される。
推古18年(610)8月の新羅任那使らの場合も同様である。
 このように、海柘榴市は大和川が大動脈として機能し、東西南北の陸路の道も、ここに集まっていた。(水運と陸路
の接合点)
 奈良時代までは初瀬川の左岸粟殿付近であったとされ、延長4年(926)7月19日長谷寺山が崩れて椿市に至り、
初瀬川を塞ぎ、ダム化後に決壊、下流域で甚大な被害が生じたとされる。このため左岸にあった海柘榴市は右岸の
海柘榴市観音堂付近に10世紀前半に再興されたと推定されている。
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 海石榴市から東への道をとれば、長谷の渓谷をさかのぼり、西峠
(古代の墨坂)から宇陀へ、さらに伊賀・伊勢に至った。
 西への道は、推古朝から現在にいたるまで、横大路と称する道が
機能し続けている。六世紀代にはその前身というべき道が存在し、
道沿いには歴代の王宮や大和王権の屯倉(みやけ)が設けられていた。
横大路の西端は當麻の地で、竹内峠・穴虫峠などを越えて河内に入り、
住吉津(すみのえつ)や難波津(なにわづ)に至った。
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