チマタ

 道の交差点を古代の人は「チマタ」と呼んでいた。昔の飛鳥には、道はまだ少なく、チマタの数もわずかであった。「軽のチマタ」「海石榴市(つばいち)のチマタ」「石上のチマタ」「当麻のチマタ」の4つ位であった。
 チマタには市がたっていた。下ツ道山田道との交差点は軽のチマタと呼ばれ、軽市があった。
 横大路上ツ道、もしくは山の辺の道とチマタには、 海石榴市があった。海石榴市のチマタは、水陸交通の結節点でもあり、推古天皇16年(608)には、大和川をさかのぼってきた隋の使節を出迎えている。
 市やチマタでは、物品の売買だけではなく、さまざまなイベントが行われていた。たとえば男女が集う歌垣。海石榴市のチマタの歌垣で、皇太子時代の武烈天皇と平群の鮪(しび)とが影媛(かげひめ)をめぐって歌を闘わせる話がある。一方、見せしめの効果を狙った処刑も行われた。敏達天皇14年(585)には、尼たちが「海石榴市亭」で鞭打ちの刑に処せられている。⇒⇒⇒ 
 祭祀も広い意味では、イベントの一つ。夕暮れにチマタに立ち、往来の人が話す言葉から吉凶を占う夕占(ゆうけ)。チマタの精霊にお供えをして悪霊を防いでもらう道饗祭(みちあえのまつり)。背景には、チマタは人々のみならず、神々なども行き交う場所という意識があった。
 市やチマタには、神が降臨する聖なる樹木が植わっていた。海石榴市は、ツバキの木があったことにちなむ名前とみられる。軽市にも、天武天皇のころには樹木があり、「万葉集」には軽の社(やしろ)の「斎槻(ゆつき)」(神聖な槻の木)が詠まれている。飛鳥寺の西の広場の槻の木(けやき)も、チマタ7の聖樹だった可能性が指摘されている。
 チマタの数は、碁盤の目の状の道路を張りめぐらせた藤原京の成立によって、ぐっと増えた。中でも京の四隅は、新たに成立した重要なチマタである。災いが都に入るのを京の四隅で防ぐ都市型祭祀は、藤原京の時代に始まったと考えられる。
 藤原京には、大宝3年(703)に「東西市」が立てられたが、従来の市を踏襲したものとみられる。藤原京跡からは、「市」へ行く際の宮城門の通行許可証の木簡が見つかっている。通行した門の位置からみて、この「市」は藤原京の北から北東方向にあった可能性が高く、中ツ道と横大路のチマタにあった中市(橿原市石原町付近)あたると推測されている。
 2013−11−15朝日新聞 
   奈良文化財研究所 桑田訓也氏より