百萬遍知恩寺 地図

   
   
  長徳山功徳院(ちょうとくざんくどくいん)と号し、浄土宗八総大本山の一つである。
もと賀茂社(上賀茂神社下鴨神社の総称)の社領とされた今出川の北(今の相国寺辺り)
に賀茂の河原屋と呼ばれる草庵があり、賀茂宮司の懇請により法然上人もこの庵に止宿し、
布教の地とした。
 上人死後、勢観房源智上人(せいかんぼうげんち)が尊師を敬慕し、その地に御影堂を建て
功徳院智恩寺と名付けたのが当寺の起こりで、賀茂社の神宮寺としての起源を持つ。
 元弘元年(1331),疫病が流行した際、第8世の善阿上人(ぜんな)が御所にこもり、7日がかり
で百万遍の念仏を唱えて疫病を退散させたので、後醍醐天皇から「百萬遍」の寺号を賜った。
 その後、各地を転々とし、寛文元年(1661)にこの地に移った。
 本堂には、本尊として法然上人43歳の頃の姿を現したと伝える木像を安置し、
その東南の御堂には釈迦如来坐像を、西方の阿弥陀堂(念仏堂)には阿弥陀如来立像をそれぞれ祀る。
  法然⇒
 






















霊鑑寺地図
   

霊鑑寺

臨済宗南禅寺派の禅尼寺で、はじめ、南の鹿ヶ谷の渓流沿いに位置したため、谷御所又は鹿

ヶ谷比丘尼御所(びくに)とも呼ばれている。

承応三年(一六五四) に後水尾上皇が皇女淨法身院宮宗澄を開基として創建し、荒廃して

いた如意寺の如意輪観音像と霊鏡を併せて祀ったことから霊鑑寺と名付けられた。

真享四年(一六八七) に、後西天皇の旧殿(今の書・居間)を賜って現在地に移建された。

その後、代々皇女、皇孫女が住職となり、明治二十三年(一八九0)までは伏見宮の尼僧が門
跡として在院していた。

現在の本堂は、徳川幕府十一代将軍・徳川家斎の寄進で、本尊の如意輪観音像の傍らの木動...

明王像は伝教大師の高弟,智証大師(円珍) の作といわれる。後奈良正親町・後水尾・:後西

天皇の震かん農?をはじめ二百古点に及ぶ御所人形.東福門院の十二単、歴代門跡の遺品など、皇室

ゆかりの寺宝が多い。

境内には、後水尾上皇遺愛の散椿(ちりつばき)のほか、多数の名椿が植えられている。