聖護院地図
修験宗の総本山で、格式の高い門跡 |
寛治5年(1090)に、白河法皇の命により、全国の修験者を統括するために創建された。その後、後白河天皇の皇子静恵法親王が当院に入寺し、以後門跡寺院となった。創建時の建物は現存せず、現在の建物は、江戸時代前期に造立されたものである。 中世における山伏の暗躍は大きい。時流を巧みに利用して、全国に宗勢を拡げ、津々浦々の農民漁夫までも、熊野詣に先達する一方、遠隔僻村にまで行脚して、信者を獲取することに努め、かたわら、木根草皮を主材とした和薬の販売をも勤めた。 珍しいのは表門から見える長屋門である。武家時代の住宅門として用いられたもので、もともと仲間部屋であった一部に、通用門を開けたものである。門の左右は門番小屋である。 武家邸であるから、屋根は瓦葺である。また邸内外の境界塀でもあるから、入母屋造、平入である。外廻りりの腰は、江戸下見張、または海鼠壁で、極めて堅固な外観を備える。武者窓を付け、虫籠窓もあり、格子の木割も太い。 |
京都御所の焼失によって2度、仮の皇居になった。 |
日本仏教において「門跡」という言葉はもともと、「一門の法跡」という意味合いであり、 一宗門あるいは宗派の後継者たちを指すものである。そして平安時代後期から、皇族 や公家が出家して特定のお寺に代々入寺する場合、このようなお寺がやがて門跡と呼 ばれることになつた。 その住職は門跡 (あるいは門主 )と称されることとなる。つまり、その時代から、門跡とい えばすなわち、皇族や公家出身の身分の高い人が住む寺院である。 江戸時代において幕府が門跡寺院の制度化を進め、全ての門跡寺院を一度整理した 上でそのランク付けを行った。 皇子の入寺する門跡は最上の「宮門跡」とされ、伏見・有栖川・桂の三宮家より入室の 寺は「親王門跡」、公家の五摂家が入室する寺は「摂家門跡」、清華家入寺の門跡は 「清華門跡」にそれぞれ定められた。一番下には「准門跡」もあるが、とにかく門跡が制度 化されたのはその時である。 ー八七一年 (明治四 )には制度としての門跡寺院が廃止されたが、それらの名刹は今 でも仏教界と社会ー般によってその格付けが認められており、平安時代からの伝統が受 け継がれている。 |
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