下鴨神社地図

祭神
玉依姫命(東殿)
賀茂健角身(かもたけつぬみ)命(西殿)
京都・世界遺産⇒⇒⇒
一の宮⇒⇒⇒
高鴨神社⇒⇒⇒
鳥居の奥に楼門が見える 楼門
 寛永5年(1628)に立て替えられた。
 賀茂御祖神社は、山城国の一の宮として古く奈良時代以前から信仰を集めている。鴨川の下流にあるところから「下鴨さん」とか「下鴨神社」とも呼ばれ、縁結び
・子育ての神として信仰を集めている。
 本殿は東殿と西殿があり、ともに国宝に指定されている。

 
 社殿の造営は、「社記」に天武天皇6年(677)のこととされ、長元9年(1036)には、21年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は、江戸時代の造営で、両本殿が国宝、他の社殿53棟は重要文化財である。
 平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の荘園を持ち、山城国の一の宮、全国賀茂神社1300社の総本山として広く崇敬されてきた。
賀茂御祖(かもみおや)神社境内
 賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命・玉依姫の神話伝承がそして「続日本書紀」に賀茂祭のこと、さらに「社記」には祟神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また、玉依姫命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)に祀られている。

 弘仁元年(810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の北西に、常の御所は紫野大宮にもうけられていた。
 また、桓武天皇が延暦13年(794)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣も盛んであった。
舞殿(まいどの)重文
5月15日の葵祭りでは狂言の舞台となる。
 蹴鞠(けまり)
 平安貴族の遊びを再現した新春恒例の蹴鞠はじめが4日に行われる。蹴鞠(しゅうきく)保存会の会員が8人1組で 色とりどりの水干(すいかん)に袴に烏帽子(えぼし)をまとい毬人(まりびと)が円陣を組み、鹿皮でできた白く、直径約20cm、重さ150gのマリを、「アリ」「ヤア」「オウ」の掛け声をかけて蹴る。15m四方の鞠庭で華麗なパスまわしが披露される。
 蹴り足は必ず右足で腿を真っ直ぐにして蹴り上げねばならない。
 毎年5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われ、この祭は、「源氏物語」をはじめ王朝文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭と言えばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起元は、欽明天皇5年(545)にさかのぼる。走馬(そうめ)は葵祭の当日、斎王代の到着後、上賀茂神社に先立ち、下鴨神社でも行われる。馬が全力で走る姿は、能力を最大限に発揮している様と考えられ、生命の勢いを象徴する神事とされる。
 上賀茂神社走馬⇒⇒⇒
 また、御陰祭騎射(流鏑馬・やぶさめ)、蹴鞠(けまり)、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い
 復元された古(いにしえ)の小川「奈良の小川」
 この小川は、境内糺の森の発掘調査によって、この所から幅3m、深さ約0.4mの古代の流れの流路約60mが見つかった。平安・鎌倉時代の下鴨神社の様相を伝える「鴨社古図」に描かれた小川の一部で、その流れが復元された。
 この小川の上流に奈良殿神を祀る無社殿社地のナラノキの林を流れているところから奈良の小川と呼ばれている。
下鴨神社の末社である相生社
井上社別名御手洗社
 祭神 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)
 例祭 土用の丑(うし)の日
 この社の前身は、「三代實録」、元慶3年(876)9月25日の条をはじめ諸書にみえる唐崎社である。
 元の社地は、高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により、文明2年(1470)6月14日焼亡したため、文禄年間(1592〜96)に、この所に再興になり寛永度(1629)式年遷宮より官営神社となった。また、井戸の井筒の上に祀られたところから井上社と呼ばれるようになった。
 
 賀茂祭(葵祭)にさきだつ斎王代の御禊の儀はこの社前の御手洗池で行われ、夏の風物詩土用の丑の日の足つけ神事、立秋の前夜の矢取り神事はともに有名である。
 土用になれば、御手洗池から清水が湧き出ることで七不思議の一つにも挙げられ、池底から自然に吹き上がる水泡をかたちどったのが、みたらし団子の発祥と伝えられている。
 山城国一ノ宮でその起源は古く、上賀茂神社とともに平安京のできたころは皇居の鎮護として崇敬されていた。下鴨の祭神玉依姫命は上賀茂の祭神である別雷神(わけいかずちのかみ)の母にあたるので御祖(みおや)と呼ばれている。加茂川と鞍馬・八瀬(やせ)方面から流れてくる高瀬川との合流点を河合といい、合流点のやや上流には加茂川に葵(あおい)橋、高野川には河合橋が架かっている。この葵橋を渡れば100mほどで、一の鳥居があり、さらに参道を進むと楼門に着く。門を入ると舞殿があり、その左には勅使殿、右に細殿・橋殿があり、前に進むと中門があって、その内に幣殿・祝詞殿があり、その奥に本殿がある。本殿は文久3年(1863)の改築、その他の社殿は寛永5年(1628)に再建したものである。
多くは桧皮葺、丹塗の建築である。
かって武士の重要な技能の一つとされた「騎射」は、今は「流鏑馬(やぶさめ)神事」などの形で伝承されている。


 境内の糺すの森は、東側に高野川、西側に賀茂川が南北に流れ、二つの川が鴨川と名を変えて合流する。
この合流点の三角地帯約12万uに鴨川神社があり境内に広がる森は糺の森である。
 鴨川から引き込まれた清水は糺の森の神域を静かに流れる。鴨川の聖と俗の境界ともいわれる。
 山背盆地の植生を残す貴重な森林で、その美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。
 旧山代原野の原生樹林が今もなお残る。樹齢200年を越える老木が600本以上生い茂る。
 「糺す神」「糺す宮」とも称された山城国の歌枕。
糺す杜の真ん中に下鴨神社の参道が通る。
瀬見の小川
 このあたり一帯は、
平安時代から紅葉の名所として有名。
流れる川は鴨長明が詠んだ瀬見の小川。
紅葉橋
 石橋を紅葉橋と呼んでいる。
 石川や瀬見の小川の清ければ
   つきも流れをたずねてぞすむ「新古今和歌集」
 高天原に降り立った八百よろずの神の中に、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)がいた。
この命は遥か賀茂川を見やって「石川の瀬見の小川」と名付け、「この川の上流に住みたい」と、
北山のふもとに落ち着いた。
しばらくすると、命には球依日子(たまよりひこ)と玉依日売(たまよりひめ)の二人の子どもが生まれた。
ある時、玉依日売が瀬見の小川へ出かけると、川上から丹塗の矢が流れてきた。
その矢を持ち帰り、毎日見ているうちに姫は孕んでしまい、男の子を生んだ。
命が「おまえの父親だと思うものに、この酒を飲ませておやり」と杯を渡すと、
その子は天高く舞い上がっていった。
父親は火雷命(ほのいかずちのみこと)だったのである。
男の子は賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)と名付けられ、上賀茂神社の祭神となった。
 下鴨神社で立秋の前夜に行われる「矢取(やとり)の神事」は、
この「丹塗の矢」の物語を踏まえているという。






河合神社と鴨長明
 「ゆく河の流れはたえずしてしかももとの水にあらず」という冒頭の文で始まる方丈記は多くの人に親しまれている。作者鴨長明は本宮祢宜の家系であった。幼少より和歌にすぐれ、後鳥羽院に見だされ御和歌所の寄人となり、宮廷歌人として活躍したことで知られている。
 「方丈記」の鴨長明ゆかりの神社。
 鴨長明は、この神社の禰宜(神職)になれなかったとの説話がある。 
祭神 玉依姫命(神武天皇の御母神)
由緒 
社殿
 鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とは、古代からこの神社鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と訓まれ、それは木管の祭神と同系統の神々との意である。  本宮の21年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとにこの神社もすべての社殿が造替されていたが、現在の社殿は延宝7年(1679)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよくとどめている。
 「ゆく河」は宇治川や下鴨神社を流れる小川など諸説あるが、鴨川が有力ともされる。長明の父は、敷地内にある河合神社で禰宜を務めた。
河合神社の境内に、長明が晩年過ごした家「方丈の庵」が復元されている。方丈は広さ1丈四方(約4畳半)。この小さな庵で書き上げたから方丈記と呼ばれる。
 人生も、川の流れのようにとどまることはなく、過ぎ去った時間はもとに戻らない。
 鎌倉時代を代表する随筆として知られる「方丈記」は、鴨長明が建暦2年(1212)3月に執筆したもので、平成24年(2012)成立800年となる。
任部社(とうべのやしろ)
 祭神 八咫烏命
 けまりの祖神として知られており、また祭神八咫烏が昭和6年日本サッカー協会のシンボルマークとなり、サッカーの神様として有名。
神服殿(しんぷくでん・重文)
 開かずの間とされる。明治天皇の父孝明天皇が幕末の戦火を逃れ、仮の住まいにしたと伝えられている。 葵祭りの日に公開される。


旧三井家別邸地図

   
 主屋2階広間  外観

賀茂川と高野川の合流点にある、いわゆる「鴨川デルタ」は、橋から眺めても

川岸に下りても実に気持ちの良い場所だ。遠くに連なる山々から流れる二つの川

の間を下鴨の糺の森が覆い、切っ先のように州浜が延びる。

デルタの北側の木立糺の森からひと続きのように見えるが、実際には別の森

になっていて、その一角に旧三井家下鴨別邸がひっそりと佇んでいる。この別邸

は、三井家の祖霊社である顕名霊社(あきなれいしゃ)を祀る場所として、
明治末から大正にかけ
て整備されたものだ。社殿はなくなったが、参拝時の

休憩所として建てられた建物と庭園が残っており, 2011 (平成23 )年に国の

重要文化財に指定され、保存修理も実施された。

その主屋は、広い庭園の中にゆったりと立っているのに、細長い2階建てにな

っていて、さらに屋上に望楼が載るという変わった形をしている。これは別の場

所から移築されたためで、元は木屋町の鴨川沿いに建てられた三井家の隠居所
った。鴨川沿いの風景や大文字を眺めるために建物内からの眺望を開くととも

に、対岸から眺められることも意識してこの異形の外観になったのだろう。鴨川

沿いに立ち並ぶ町家の魅力がそのままこの地に生け捕られたかのようだ。

別邸の整備と同じころ、賀茂川と高野川の合流点の大規模な改修が実施されて

いた。三井家別邸周囲の河川敷を埋め立てる事業で、太古から続くかに見える鴨

川デルタの風景は、実はこの事業によって形成されたものだった。別邸建設の経

緯を研究した村上玲奈氏によれば、埋め立て地を民間に払い下げる計画だったも

のが、京都府有地へと変更され、結果として別邸の周囲が緑で囲まれる現在の景

観が生まれたという。

この計画変更には三井家からの要望もあったようだ。すると、今の鴨川デルタの
景観は、別邸の整備と
呼応しながら生まれたものだったことになる。

三井家下鴨別邸と鴨川デルタの整備は、この地の風景を刷新した。けれども背

後の森の中には、鴨川沿いの風景が生け捕られている。両者は一体となってこ

の古くて新しい風景を支え合っている。

2017−11−11 朝日新聞 
しみず・しげあつ 197 1年生まれ。都市建築史家。 京都工芸繊維大教授。