磐之媛命地図
古事記下巻では、恋多き仁徳天皇と嫉妬する皇后、磐之媛命の物語が展開する。 仁徳天皇が宮中にお召しになった美しい豪族の娘、クロヒメは、皇后の怒りに触れるのを怖がって、吉備国へ戻ろうとする。その船出のときに、天皇が彼への恋情の歌を詠むと、皇后は直ちに使いをだし、クロヒメを船から降ろしてしまった。そのためクロヒメは歩いて帰らねばならなかった。 また、皇后が、新嘗祭の酒宴に使う柏の葉を採るため、宮中を留守にしている間、天皇は異母妹を寵愛する。その噂を聞くや、皇后は、せっかく採取した柏の葉を海に捨ててしまい、宮中へは帰らず、ヌリノミという人の家に滞在した。天皇が帰りを催促しても無視する皇后。しかし皇后に仕える人たちが機転を利かし、皇后の滞在理由を「ヌリノミが飼う不思議な虫をご覧になるためです」と申し上げ、「一度は這う虫になり、一度は繭になり、一度は飛ぶ鳥になる」と説明する。 すると天皇は、「私も見に行こう」と迎えに出向かれ、皇后も機嫌をなおされた。 不思議な虫(蚕)は皇后に献上された。 奈良市には磐之媛命陵、御所市に皇后の父の墓といわれる室宮山古墳がある。 武内宿祢の孫娘。
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磐之媛は、武内宿祢と葛城国造・荒田彦の女葛比売の子の間に葛城の襲津彦(そつひこ)があり、彼の娘である。 襲津彦は対朝鮮外交として勇名をはせた。 襲津彦は葛城山麓の長柄(今の名柄)を本拠とした。子孫は、5世紀の河内王朝時代に皇妃を多く出し、大王家の外戚として栄えた。この系統の人々を皇別の葛城氏という。 |
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名柄の町並みは、古民家をよく残している。街並みの西側に、ひときわ目を引く重文中村家がある。切妻屋根本瓦葺き段造り、慶長年間(1596〜1614)、江戸時代初期の豪壮な民家建築である。名柄に古い建築が残り、風格のある街並みをつくっているのは、南北につらぬく高野街道(葛城古道)と、東西に走って水越峠を越える水越街道の交点に町が発達し、商業が盛んだったからである。水越街道を西へとれば、金剛山と葛城山の鞍部(あんぶ・山の尾根のくぼんだところ)を越え、河内富田林へと通じる。東へとると下街道(国道24号)を突き切って富田林から飛鳥、又は吉野へ通じる。 |
石之日売皇后の嫉妬をめぐる歌(57〜63 )記) これより後に、大后が新嘗祭(十一月二十三日、天皇が神々に新米を供える)のための御綱柏を紀の国 「天皇は、この頃八田若郎女に婚(あ)ひたまひて、昼夜仲陸まじくいらっしゃいます。大后はそれをご存じな 注:御綱柏= 葉の先が三岐に分かれた柏。ウコギ科の常緑高木カクレミノか、ウラボシ科羊歯のオオタニワ 是に、大后大(おおきさきいた)く恨み怒りまして、其の御船(みふね)に載せたる御綱柏(ふつながしは)は、 つぎねふや 山代川)を 川上(り 我(が上れば 川の辺(に 生(ひ立てる 烏草樹(を 烏草樹(の木 其(が下に 生(ひ立てる 葉広( 五百箇(真椿 其(が花の 照り坐(し 其(が葉の 広り坐(すは 大君ろかも (古事記) 《現代語訳》 山また山の 山代川を 川上りして 上って行くと 川のそばに 生え立っている 烏草樹よ 烏草樹の木。 その下に 生え立っている 葉の広い 聖なる椿。 その花のように 照り輝き その葉のように 広大にいますは わが大君ですこと 即ち、山城より廻りて、奈良の山のロに到り坐して、歌ひたまひしく、 つぎねふや 山代川を 宮上(みやり 我(が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭(を過ぎ 我(が 見が欲(し国は 葛城( 高宮( 吾家(の辺り (古事記) 《現代語訳》 山また山の 山 代川を 高殿をさし 遡ぽり行くと、 青土(あおに)の地 奈良を過ぎ 小楯(おだて)の山 大和を過ぎて、 わたしの 見たく思う地は 葛城の高宮 故郷のわが家のあたりよ。
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