双ヶ丘地図
ーの丘・・・.一の丘頂上には古墳時代後期(6世紀後半
~7世紀初頭)の豪族首長墓と見られる古墳(墳丘直径 約44メートル)があります。項上は海抜1 1 6メート ルと雙ヶ岡内の最高地点であり、北麓の仁和寺をはじめ 西、北、東にわたって開けた眺望はすばらしいものです。
の眺望が開けています。<2> 群集墳・・・雙ケ岡には、一の丘と二の丘との鞍部及び 三の丘周辺に二群の群集墳があります。これらは6世紀 後半から7世紀初頭にかけて築造されたものと考えられ ています。 <3> はなみのひろば・・・.サクラなどの花木を中心とし た広場です。あずまや(休憩舎)があります。<4> こもれびのひろば.....疎林と芝生の広場です。便 所と水飲み場があります。 <5>
仁和寺・・・仁和寺は、仁和2年(886)創建の門跡寺院で 国宝の金堂をはじめ数多くの文化財を有しており、境内 は国の史跡に指定されています。 組が残る国指定特別名勝の庭園があります。 妙心寺…四十余の塔頭を持つ禅宗寺院で、境内は国の史 跡に指定されています。 京都市 |
一の丘 ⇓ |
一の丘より望む仁和寺 |
二の丘 ⇓ |
三の丘 ⇓ |
三の丘群集墳 この周辺には、6世紀後半から7世紀初頭にかけて築造されたと考えられる群集墳が見られます。群集墳 というのは、小規模な古墳が一定の墓域に次々と築造されて群をなすもので、5世紀末ないしは6世紀初頭 に始まり、6世紀後半の最盛期を経て7 世紀前半には衰退していきます。その被葬者は、墳丘規模、内部構 造、さらにその圧倒的な数から見て、一部支配階級ではなく、より広範な階層の人々と考えられます。 雙ケ岡には、このほか、一の丘と二の丘との鞍部にも群集墳があり、下の丘頂上には同時期の豪族首長墓 と見られる古墳があります。 |
雙ケ岡1号墳 南西方向に開口するこの古墳は、巨石を使用した両袖 式の横穴式石室を有する円墳で、古墳時代後期(6世紀 後半~7世紀初頭)の豪族首長墓と考えられています。 昭和55年に実施した発掘調査の結果によると、墳丘 直径44m、高さ8m弱で、羨道及び玄室の規模は以下 のとおりです。 長さ(m) 幅(m) |高さ(m) 羡道| 8.5 | 2.4 | 2.3 玄室| 6.1 | 3.6 | 5.0 遺物としては、須恵器、土師器、金環、鉄製品、石棺 (凝灰岩製)の破片などが出土しました。 なお、発掘調査の結果、玄室の右壁、羨道先端部など の石積が崩壊する危険があったため、土のう袋に土砂を 詰め、石室内に充てんして埋め戻しました。 京都市 |
双ヶ丘⇒⇒⇒ | ||
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五位山と号する。京都では数少ない律宗寺院 である。極楽浄土に見立てた浄土式庭園は有名 で、平安末期の姿をとどめている花の寺とし ても知られ、とりわけ蓮の名所として名高い。 平安時代の初めに右大臣清原夏野がこの地で 営んだ山荘を、没後、寺に改め、双丘寺と称し たのが当寺の起こりで、大治五年(一一三0)に 鳥羽上皇の中宮待賢門院が再興し,寺名を法金 剛院と改めた。四季折々の美しい景観は、待賢 門院を深く慕ったといわれる西行の歌にも詠ま れている。その後、弘安二年(一二七九)に円 覚により再興され、律宗に改められた。 本堂は元和四年(一六一八)に再建された もので、堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像,四 本の手を持つ珍しい十一面観音坐像、僧形文殊 坐像(いずれも重要文化財)などを安置してい る。また、寺宝として、蓮華式香炉(重要文化 財)などの工芸品や書画など多数を蔵している。 庭園は、昭和四十五年( 一九七〇)に発掘. 復元たもので、池の北側にある巨石を並べ 造られた「青女の滝」は、五位山と呼ばれる背 後の山とともに国の特別名勝に指定されている。 |
浄土集 長泉寺 | 兼好法師 |