丹後國一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ)地図

   
古称 籠宮(このみや)
祭神 主神 天照國照彦火明命
     

 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地真名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ま
した。

 その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神
を吉佐宮という宮号でご一緒に四年間お祀り申
し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、
又豊受大神は第二十一 代雄略天皇の御代
にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。それに依って当社は伊勢神宮
内宮の元宮、更に外宮の元宮という
意味で「元伊勢」と呼ばれております。

 両大神が伊勢にお遷りの後、御本宮を奥宮真名井神社(吉佐宮)の地から、現今の籠神社の地へお遷しして、
社名を吉佐宮から籠宮と改め、養老三年に、天孫
彦火明命を主祭神としてお祀りしました。それに依って、元伊勢
の社として、又丹後国の一宮として朝
野の崇敬を集めて来ました。 

社殿様式

 御本殿は伊勢神宮と同様の唯一神明造りで、御本殿の勝男木は十本、千木は内そぎになっています。
心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色(青、黄赤、白、黒)の座玉は、伊勢神宮御正殿と当社以外には拝せら
れないもので、日本神社建築史上特に貴重なものとされています。これは山陰道八ヶ国第一の大社として、古来の
御神徳·御社格を象徴するものであります。神明造りのお社は他にもありますが、規模·様式とも伊勢神宮御正殿の
様式に近似しているお社は当社以外にはなく、当社と伊勢迪宮が古代から深い繋がりにあったことを物語っていま
す。


一の宮と総社⇒⇒⇒
籠神社⇒⇒⇒

天照大神御鎮座伝承

 第十代崇神天皇六年まで、宮中でお祀りされていた
照大神は、皇女豊鍬入姫命に託され宮中の外にお祀り

されることになりました。最初にお祀りされた場所は

倭国の笠縫邑です。その次、崇神天皇三十九年に天照

大神と豊受大神をご一緒にお祀りしたのが当社奥宮

真名井神社(古称吉佐宮)です。その後豊鍬入姫命は

各地を巡られましたが垂仁天皇の皇女である倭姫命

御杖代を委ねられ、垂仁天皇二十六年九月に倭姫命が

伊勢の地に神宮(内宮)をご創祀になりました。倭姫命

の母神は比婆須比売命と申し、籠神社海部氏の直系子

孫であり、垂仁天皇のお后に上がられました。そのため

倭姫命は海部氏の外孫に当たられます。大和国の天皇

家と丹後(『古事記』の時代は丹波国)の海部氏の血を

引く倭姫命が天照大神を伊勢までお遷しになったとい

う伝承は大変意味深いことと云えます。

豊受大神御鎮座伝承

 天照大神が伊勢に御鎮座になってからおよそ四百八十

年後の雄略天皇二十一年に、倭姫命の夢に天照大神が

現れになり、「皇大神、吾、天之少宮に坐しし如く、天の

下にしても一所に坐さずは御饌も安く聞こし食さず

丹波国の與佐の小見の比沼の魚井原に坐す道主(丹波

道主)の子、八乎止女の斎奉る御饌都神止由居太神を

我が坐す国ヘ坐さしめむと欲す」と告げられました。そ

れにより、明年の七月七日、大佐々命や興魂命、丹波道

主の子孫など多くの神々が丹波国与謝郡(現·京都府宮

津市)までお迎えに見え、雄略天皇二十二年(四七八)に

伊勢にお遷りになりました。その際、倭姫命も伊勢か

らお見えになり、真名井原の藤岡山(当宮奥宮真名井

神社が鎮座する山)にある磐座の傍らに湧き出る天の

真名井の水を伊勢の藤岡山の麓にある伊勢神宮外宮の

上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。