野見宿祢、土師氏、菅原道真

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菅原天満宮 
菅原道真をまつる三大宮のひとつ。
 祭神 天穂日命 野見宿祢命 菅原道真公
 末社 春彦神社   祭神 渡会春彦
     稲荷神社   祭神 豊宇気姫
     市杵島神社  祭神 市杵島姫
 菅原天満宮略記
盆梅展とおんだ祭りでにぎわう境内  菅原道真の産湯地と伝える遺跡が
神社の東北約100mのところにある。
 産湯地 道真の母が里帰りして出産したとされる。
道真誕生地とされる場所は全国に複数あり、実際に生まれた場所は不明。

 祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、野見宿祢命(のみのすくねのみこと)、菅原道真であるが、
元々は天穂日命のみであった。創建の由緒は不詳であるが、この一
帯を拠点としていた土師氏が
祖神の天穂日命を祀ったものと見られる。当地は菅
原道真の生誕の地であるとの伝承があり、
神社の東にある池の水を産湯に使った
とも伝わる。
 道真の母 伴氏⇒
 菅原道真⇒

 菅原道真公は野見宿祢(後の土師氏)より出ており、第17世の孫である。
野見宿祢は菅原の地で埴輪の製作に従事し、垂仁天皇より土師臣の姓を賜った。
 この一帯は古代から菅原と呼ばれた。
 道真の先祖である古代氏族の土師氏がこの地で勢力を伸ばし、地名に合わせて改姓したとされる。
 後醍醐天皇の時代、右大臣・道真は左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)で大宰府に左遷され、
失意のうちに亡くなった。その6年後、時平は病死。時平の甥で皇太子となった保明親王らも早死し、
道真のたたりと恐れられた。
 道真が雷神と化して京都御所清涼殿を襲った怪異伝説もある。また、雷神として恐れられた道真は、
雨をもたらす農耕の神としても信仰された。
 道真の三大宮とは、非業の最期を遂げた魂を鎮めるため建てられた京都市の北野天満宮
最後に暮らした地の太宰府天満宮
神魂神社⇒⇒⇒
垂仁天皇⇒⇒⇒
當麻蹴速⇒⇒⇒
相撲神社⇒⇒⇒
建武雷之男神と建御名方神の戦い⇒⇒⇒
十二柱神社・野見宿祢・泊瀬列城宮⇒⇒⇒
祝詞をあげお祓いする
最初の祝詞は⇒⇒⇒
田主が候文調で動作の説明をする。 使われる牛が、逆に田主を
引きずりまわし、笑いを誘う。
牛の中は小4から小6の男子が
行う。
おひねりも投げ入れられる。
見物人に投げ入
れられた、稲で
束ねている
松の葉。
こえたごの肥を見物人に向かっ
てまき散らす。
後ろにいるおじさんが、田主の動作に
難癖をつけやじる。
その後、田主は妙に細かい演技をする。
 おんだ祭りは、お田植え祭りともいわれ、各地で行われている。ここでは田を耕し、もみをまき、肥を入れ、草を
ぬき、最後に松の葉を見物人に投げて終りとなる。
盆梅展
菅原東遺跡埴輪窯跡群、
土師氏伝承の埴輪誕生ゆかりの地 地図
 「ここは、今から約1500年前(6世紀)に埴輪を焼いていた遺跡です。
平成2年(1990年)に発掘調査で見つかりました。
今も周辺には「菅原」という地名が残っていますが、
土師氏の一族である菅原氏姓はこの地に由来(道真の3代前)しています。
土師氏は、かって古墳の築造に深く関わる仕事を行いながら、この地に居住したと推定されていました。
埴輪を焼いた窯跡が個々で発見されたことは、それを裏付ける証拠です。」
 「もう一つ重要なのは、ここが埴輪誕生物語の舞台だったと考えられる点です。
物語は、第11代垂仁天皇の皇后であった日葉酢媛の古墳に、
野見宿祢(土師氏の祖先)が初めて埴輪を作って並べたと伝えています。
すぐ南に垂仁天皇陵、北に日葉酢媛陵を眺望できたこの地に立てば、
物語の背景がよくわかります。この遺跡では、6基の窯跡が見つかっています。
すべて斜面地を斜めに掘り抜いたトンネル状の登窯です。
人物・馬・鳥・家などをかたどった埴輪がここで作られ、
秋篠川を使って南方へも運ばれました。」
 土師氏は、土の師、つまり土木技術者ともみられ、古墳築造の専業的な技術者集団には、
土師氏の存在が知られている。
 大山古墳(だいせん=仁徳天皇陵)は、世界一大きな陵墓といわれるが、
この古墳を含む百舌鳥(もず)古墳群の中に、土師の地名がみえ、
古墳築造に携わった土師氏たちの居住地が地名として残されている例も少なくない。
 土師氏が菅原氏や秋篠氏に、忌部氏(いんべ)が斎部氏に改名されているが、
その動機は、氏名がその当時の社会において、負の印象を持たれていたからである。
 菅原道真は平安時代前期の学者で右大臣になった。学問の神様、九州の太宰府に左遷されて非業
の内に亡くなった。
 道真は地震の詳細な記録を集め、役所にまとめさせ続けた「日本三代実録」がある。
 道真ほど記録で後世の日本人に役立った古代人はいないと言われている。