東大寺山古墳地図

 
 中央に三葉環周囲に鳥型の飾りを
しつらえた大刀柄頭。

大刀柄頭(たちつかがしら)

 もとは素環刀(そかんとう)であったものを
4
個体だけ付け替えたひとつである。

中央に三葉環を置き、周囲に鳥形の飾りを
つけている。

大刀は和爾一族が中国の後漢王朝から下賜
された宝器として長ら
く伝承したのである。

古い太刀 東大寺山古墳と謎の銘文鉄刀  東大寺山古墳の発掘調査
中平銘鉄刀と七支刀  ワニ氏の実像に迫る   
     
 昭和36年と41年に天理大学によって調査が行われた。
 東大寺山丘陵の最高所に作られた前方後円墳は、全長140m、後円部径約84m、高さ10m。
 東大寺山古墳群の中では最大規模の古墳に当たる。
 埋蔵施設は、割竹形木棺か箱形木が使用された粘土槨である。
 副葬品が多数出土し、棺内からは、勾玉、鍬形石、車輪石など、棺外からは、鉄製剣、刀、槍などが出土した。
とくに「中平銘の鉄刀」がしたことが有名である。文章は24文字からなり、中国年号「中平」は、後漢の184年~188年にあたり、
日本で発見された年号の判明する遺品としては金印に次ぐ物になる。他に、「大刀頭」、大刀は和爾氏一族が中国の後漢王朝から
下賜された宝物として長く伝承されてきたという。
 被葬者は和珥氏の首長と考えられる。 
 丘陵最高所に立地、平地との比高70m。
 前期後半(4世紀半ば~後半)周辺の古墳では最古。 
     

東大寺山古墳

 標高一三0米の丘陵に造られた北向きの前方後円墳。全長一四0米.

中腹とすそに円筒はにわ列が、また墳頂部に形象はにわが並んでいた。

主体部は粘土槨にて南北一二米、東西八米深さ約1三.七米の墓拡の底に、砂礫と

粘土で丁寧な棺台を設け、長大な木棺が粘土で覆うようにして安置されていた。

昭和三六年初め、鍬形石27·車輪石26なと多数の碧玉製品,滑石製品·鉄刀剣などが

掘り出されたのを機会に、同年九月から翌年一月におよぶ発掘調査の結果

主体部はーと盗掘されていたが棺外側から鉄刀20(うち素環頭6・銅製環頭5)

鉄剣9・ .鉄槍10・銅鏃・.革製短甲巴形銅器・玉類等多くの遺物が発見され

重要な学術資料を提供した。

なかでも鳥形飾銅製環頭をつけた一ふりの鉄刀からは「中平□年五月丙午造作・・・」. . .

と、金象嵌で記した銘文が見出され中国後漢末の中平年中(一八四~一八九)に

製作されたことが明らかとなった。

これは紀年銘のある金石文では、我が国最古の遺例であるばかりでなく、卑弥呼

魏王から下賜された五尺刀二ふりに当るのではないかという学説も

出されている。

なお、出土遺物は一括して国の重要文化財に指定されていて東京国立博物館
に保管されている。

  天理市教育委員会

「中平□年」銘大刀

 文章は24文字からなり

中平□年五月丙午造作文刀百練清剛上応星宿下辟不祥とある。

中平年(ちゅうへい)は中国後漢の184~188年にあたり、
日本で発見された年号
の判明する遺品としては金印に次ぐものである。

「中平」銘刀:金象嵌銘花形飾環頭大刀(重文)東京国立博物館蔵

刀身の棟の部分に 24文字を金象嵌で表した長さ 110 cmの鉄刀1口。刀身の銘文は「吉祥句」を用い、

「中平oo(年)五月丙午造作文(支) 刀百練清剛上応星宿oooo (下避不祥)」と記す。 内容は「中平o年

五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。 よく鍛えられた刀であるから、 天上では神の御意に叶い、下界で

は禍を避ける事が出来る」という意味。中平とは後漢の霊帝の年号、184~189年を指し、「倭国乱」

(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期、2世紀の末。 中平銘紀年のは「倭国乱」終結後、

後漢王朝から下賜されたものと考えられている。この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのか

は不詳。しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではと考える事が出来る。 鉄刀に着けられ

ていた環頭は鳥文飾りで、刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有の直刀とは違い、中平の年号が

示すように中国 (後漢)製だ。 中国製の刀身に日本で改造し、日本式の環頭を付したものと推定されている。




帯解黄金塚古墳(おびとけこがねづか) 地図

   
 奈良市の帯解黄金塚古墳(おびとけこがねづか)は、春日山から南の東山麓沿いの丘陵にある方墳です。
辺約30mで、それぞれの辺は東西南北の方位にほぼそろいます。墳丘の裾回りには、2段の石敷きが
めぐりほす。さ
らに墳丘の外には東西方向約120m 、南北方向最大約65m、幅約15~20m、高さ約4m

の外堤があります。

 竹やぶと雑木林が生い茂り、わかりにくいのですが、荘厳な規模を持っています。北·東·西が囲まれた
「三方
山囲み」の中央に南向きの墳丘を設けるのは、飛鳥時代の古墳の特徴です。7世紀中ごろの桜井市
忍阪にある段ノ塚
古墳(現·舒明天皇陵)はその典型例です。

 所在地は奈良市田中町上ノ口です。ここはかつて、帯解村でした。ほかにもある黄金塚と名が付く古墳と
区別する
ため帯解を冠して呼んでいます。

 墳丘部分は、1891(明治24年に御陵墓伝説地、1926 (大正15 )年に陵墓参考地になりぼす。御陵墓伝説地

や陵墓参考地は陵墓の候補地のことです。拝所や鳥居はありませんが、宮内庁が陵墓に準じた管理をして
います。

 49年の「陵墓参考地一覧」(宮内庁)には、被葬者の候補にあたる「該当鎯方」に、天武天皇の皇子で、
「日本書
紀」編纂者の舎人親王(676~735)をあてています。この古墳を「トノ塚」とも称したようで、それが「ト

ネリ」に通じるという地名考証がなされたようです。でも、陵墓に格上げされないまま黄金塚陵墓参考地と
して、
現在に至っています。

 舎人親王は天平7(735)年に葬儀が盛大に行われたと、「続日本紀」に記録されていほす。一方、
帯解黄金塚
古墳の築造時期は出土の土器などから、7世紀中ごろとみられます。両者には約100年もの開き
があり、舎人親王
墓とするのは無理を感じます。

 御陵墓伝説地になる前の1890 (明治23 )年に墳丘部分が売買され、開墾した際に石室が見つかりました。
残念なことに天井石がめくられて、南側手前の羨道部から奥の玄室部に向かって石材が部分的に抜き取
られてしまい
ました。直後に御陵墓伝説地となるのは、この破壊に対する保護施策であったと考えられます。
その後, 1895
(明治28 )年には石室の修築がなされています。

 私が帯解黄金塚古墳を知ったのは、考古学を学び始めた1970年代後半の大学時代です。「以前は古墳の
中を見
ることができた」と聞きました。
 そのときに示された横穴式石室の図面は見慣れない特異なものでした。榛原石と呼ばれる室生安山岩の
列に割れ
る石をれんがのように積上げて、石室の壁を造っています。

 実は戦後まもなく、陵墓内部に本格的な調査が入りました。陵墓内部の横穴式石室に対する考古学調査を
宮内が
許可した稀有の例となりました。
  2017-4-21  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)

 帯解黄金塚古墳は1951年,考古学研究者の全国組織、日本考古学協会からの願いにもとづき、本格的に
考古学調査がなされました。後の京大教授の小林行雄氏を主任として、墳丘および外堤の測量図、石室実
測図の作製、写真撮影が行われました。
 58年には橿原考古学研究所の初代所長、末永雅雄氏に宮内庁が委託し、測量、実測、撮影をしました。

最新の石室調査は2007年です。宮内庁書陵部が過去2回の実測成果をもとに詳細に観察し、新たな図面を作
ました。近畿の横穴式石室は被葬者の棺を納める玄室(墓室)と通路となる羨道の二つの部分からなるのが
一般的で
す。
 しかし、帯解黄金塚古墳
は複数の墓室を持ちます。
から羨道、墓室状区画、前室、玄室の四つの部分があり、特異な複室構造です。

羨道から玄室奧壁の現在の長さは約12。5mとみられます。
本来は13 ~ 16 mになると
考えられています。
玄室は羨
道の幅より両側が広くなる両袖式で、東西側壁が長さ2.95m、奥壁と前壁の長さが3·31mです。
ほぼ正方形と言
ってよいでしよう。

壁は、室生安山岩(通称榛原石)の薄く平たく割れる性格を利用して、れんがを積むように造られています。
積石室(せんづみ)と言います。磚は、れんがの意味です。県内で約15例あります。
 榛原石の産地
に近い宇陀市の口宇陀(くちうだ)盆地や桜井南部に集中しています。
特異な複室構造の類例を挙げると、群馬県前橋市の宝塔山古墳(ほうとうざん)があります。
7世紀後
半の一辺約60mの方墳で、全長約12 mの複数の墓室を持つ横穴式石室です。
大型石材を
加工した壁の表面に漆喰を塗り、白壁に仕上げます。
帯解
黄金塚古墳の影響があるという意見があります。

帯解黄金塚古墳の石室の源流はどこにあるのでしょうか。「もしや」と思い描くのが、長崎県壱岐島の後期·終
期古墳の横穴式石室です。

直径45 mの鬼の窟(いわや)古墳は石室全長約16m、玄室は正方形に近く、壁が直線的に立ち上がり上半分
から内側へ傾くと
ころも似ています。

壱岐では6世紀末ごろから石室に巨石を用いた前方後円墳や大型円墳が築かれます。

壱岐は朝鮮半島との対外交渉の拠点だったことから、近畿の横穴式石室の影響をみてとる考えがあります。
ただ、鬼の窟古墳は7世紀
前半に築かれ、7世紀中ごろの帯解黄金塚古墳より先行します。
 壱岐からの影響の可能
性を考える中で、次の歴史背景は糸口になるかもしれません。

古代豪族の春日、大宅、小野,和爾の各氏が春日山の南側一帯に居住したことは、古代史研究から指摘されてい
す。なかでも大宅氏の中心地は、帯解黄金塚古墳のある地域にあたります。

「日本書紀」には、推古31(623)年7月の征新羅副将軍の小徳大宅臣軍、天智2(663)年3月の征新羅後将軍の
大宅臣軍が登場しま
す。大宅氏が対新羅の拠点となった壱岐で活動したことは想像に難くありません。
この
ことが壱岐の石室をとり入れる契機になったとは考えられないでしょうか。双方をつなぐ手掛かりの糸がほのか
にえるように思います。
  2017-4-28 朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭) 








































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