高安山城

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高安城2号倉庫 高安城3号倉庫址礎石
 660年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐に完敗した。
 この緊迫した状況のもと、天智天皇は667年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州太宰府を守る大野城や基肄城(きい)、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。
 
 高安城には築城後、畿内の田税(たちから)である穀(もみ)と塩を蓄え、非常時に備えたが、672年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武天皇持統天皇の時代に修築され、文武天皇の701年に廃城となった。
 
白村江の戦い  太宰府  近江大津
高安山城     
ケーブル山頂 高安山 地図 大阪側から登るならば、近鉄信貴山線終点、
信貴山口からケーブルに乗る。

高安球跡

西暦六六七年天智天皇が対馬国金田城、讃岐国屋島城とともに築

造された古代の山城白村江の戦後、百済領に進出した唐の勢力の

侵攻に備えたもの当時畿内の田の税である籾と塩を倉庫に貯蔵した。
城域は高安山
から信貴山にかけての山地に広る。

大阪府側の急ながけは自然の防塁、安山頂は高安烽跡、奈良県

側の緩傾斜には「高安城を探る会」によって昭和五十三年四月倉庫

庫跡の礎石群が発見されている。 

幻の高安城発見 棚橋 利光(高安城を探る会会長)

 『日本書紀』によると、天智天皇六年(六六七)、対馬国の金田

城、讃岐国の屋島城とともに、倭国の高安城を築いたと誌され

ている。百済の滅亡、そして白村江の敗戦後、唐、新羅の侵攻

をおそれて、筑紫国の大野城.基肄城(きい)などとともにつくられた

古代山城であった。

その後の高安城については続日本紀』にある文武天皇

大宝元年(七〇一)の廃城の記事と元明天皇和銅五年(七一二)の

高安烽の停止記事を最後に、歴史から姿を消す。もちろん人々

の記憶からも消えてしまう。

江戸時代になって、『河内志』という地誌にはじめて、高安城

は河内国高安郡服部川村の東方の山中にありという記述があら

われる。『河内名所図会』にも同様の記述がある。

その後、大正七年、東京帝国大学の関野貞博士が「天智天皇

の高安城」(『奈良県の史蹟報告』第五)を書いて、大体の位置を大

阪府八尾市高安山から奈良県生駒郡平群町と三郷町にかけての

山中にあると推定された。

それ以来、研究者の間で高安城に注目し、踏査する人もあら

われた。しかし何の遺構もみつからないまま、今日に至った。

遺構はないというのが常識であった。

地元でも一部の郷土史家をのぞいて、高安城の名前すら

聞いたことのない人が多い。

八尾市ではここ十年来、年、郷土史講座を開いている。

そのためか受講者の市民の間に、『日本書紀』に書いてある

のに何の遺構もなく、幻の城といわれている郷土の古代山城

高安城を、なんとか市民の手と足で探してみようではないかと

いう話がもちあがった。

二年前の昭和五十一年五月、一市民の提案から市民グループ

の「高安城を探る会」が結成された。古代のロマンにあこがれ

て入会した人も、会結成の新聞記事ではじめて高安城を知った

人が多かった。その時以来、市民たちによる高安城探しが始まった。
冬の間毎週といってよい
ほど三、四〇名が信貴生駒山系

の山に登り、道なき道を歩いて遺構探しに夢中になった。

一三00年も忘れ去られていた高安城は、そう簡単にみつか

るものではなかった。簡単な砦であるからみつかるはずがない

とか、ツチノコ探しと同じだともいわれた。

しかしロマンを求める会員の努力と、夢を実現させてやりた

いという多くの市民の協力で、とうとうこの四月、遺構の一部

を発見する幸運にめぐまれた。

発見したのは高安城の倉庫の礎石であった。高安城と信貴山

の間の山中に埋もれていた。削平したと思われる尾根の上の平

地に、上面で一m四方もある大きい石が、約二m十cmの間隔

で規則正しくならんでいた。縦五列横四列、合計二十個で一

棟分となる。この礎石が六棟分ならんでいた。

三0cmほどの深さに埋もれていたが、鉄の細棒で礎石の存在

を確認した。鉄棒で地面を突くと、カーンという澄んだ音がは

ねかえり、発見者を喜ばした。

所在地は奈良県生駒郡平群町の山中であった。

発見後、奈良県教委文化財保存課の方や奈良国立文化財研究

所の坪井清足所長など、二、三の専門家の方にみていただき、

ほぼまちがいなかろうということであった。『日本書紀』をう

らづける大発見であるとのほめ言葉もいただいた。

ところが、ここで問題がおきた。これまでの二年間、探索に

苦労してきた探る会の人々の中には、大発見であればあるほど、

新聞・ラジオ・テレビに大きく報道していただいて、世間の人

人にも広く知ってもらい、喜んでほしいと思う人が多かった。

一方新聞などに発表になって、心ない人のため遺跡地が荒

らされてはこまると心配する向きもあった。

新聞・テレビに出る出ないで、この発見の意義が薄れるもので

はないが、発表してほしいというのが市民として探索に参加し

た人々の人情であった。

五月二十八日、同志社大教授森浩一氏の主宰する古代学研究

会が高安城を見学された。案内は探る会がした。

当日は森先生が来られるというので、研究会の方、他会の人

人、考古学の専門家、県教委関係の方々、それに探る会の会員

など一三〇名以上もの多人数が集まった。新聞・テレビの報道

関係者も多くつめかけた。

午前中、高安山頂の烽火台(のろし)、武器庫という伝承のある古墳、
礎石、柱穴などを案内見学した。

四八八m の高安山頂に登ると、大阪・奈良が一望される。

高安烽の場所としては絶好のころである。以前は大きな石が
四、
五個あった。

門礎石や柱穴らしいものは、探る会がこれまでにみつけたものである。

午後、倉庫礎石の発見地へ行った。狭い尾根の上は一三○人

もの人でうずまった。探る会からの発見時の説明、森先生から

の見分談などがあった。

森先生が高安城のものにほとんど疑う余地がないという判断

をされたので、記者の取材やテレビの撮影などが活発に行なわ

れた。

落葉をのけると、大きな礎石が姿をみせた。これをみて人々

の歓声があがった。こうした興奮のうちに見学会の一日が終った。

翌朝、朝日、毎日、サンケイの各紙、それにNHKなどが一

斉に高安城の発見を報じた。民グループの快挙であるといっ

ていただいた。これで二年間の努力もむくわれたと思う会員が

多かった。五月二十八日、この日は私たち探る会の会員にとっ

て、発見の日にもまして忘れえない日となったのである。森先

生をはじめ多くの方々に感謝するものである。





























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