父…草壁皇子(追尊岡宮天皇・第二皇子)
母…阿閇皇女(あべ 天智天皇第四皇女・後の元明天皇)
誕生…683年(天武天皇12年)
御名・異称…珂瑠(かる)・倭根子豊祖父天皇(やまとねことよおおじ)
皇后…藤原宮子(藤原不比等の娘)
立太子…697年(持統天皇11年)2.16
即位…697年(文武天皇元年)8.1 在位年数…10年
崩御…707年(慶雲4年)6.15 年令…25才
皇居…藤原宮 年号…文武、大宝、慶雲
〇文武天皇の最大の事業は、大宝律令編纂である。日本という国号が初めて定められた最初の法典であった。大宝の改元は対馬国からの金の貢進があり、めでたいので改元し、さらに3年後に西楼の上にめでたいしるしの慶雲が現れたので慶雲と改元されている。
大宝律令は、刑法に当たる律6巻、行政上に必要な法則である令11巻からなり、700年(文武4年)忍壁親王、藤原不比等、粟田真人らに命じて撰修させ、翌年完成、次年施行した。
〇鋳銭司を置いたり、度量を諸国に頒ったり、鍛冶司に諸国の印を造らせるなど行政上の改革も熱心に行っている。
陵墓…檜隈安古岡上陵 (ひのくまのあこのおかのえのみささぎ 栗原塚穴古墳)
山形所在地…奈良県高市郡明日香村栗原字塚穴
〇文武天皇陵は、近世では一定を見ず、「大和志」は中尾石墓、「前王廟陵記」は高松塚、「打墨縄」は野口ノ王墓の各説が出ている。中でも文武天皇が火葬されている事実を勘案すると宮内庁治定の現陵より、中尾山古墳の蓋然性が最も高い。
〇「延喜諸陵式」に檜前安岡上陵とあるが、現在「前」を「隈」、「占」を「古」に改めている。さらに「兆域東西三町、南北三町、陵戸五烟、遠陵」に班されている。
〇「扶桑略記」には、陵形は完全でないが、径約28m、高さ約2.1mの低い墳丘を残すのみと伝えている。
〇欽明天皇の坂合陵、天武・持統天皇の大内陵、文武天皇の安古岡上陵が檜隈三陵と言われている。
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