六角堂(紫雲山頂法寺)地図
六角堂御幸桜(みゆきざくら) | |
聖徳太子が、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、 守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、 弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、 西国33ヶ所観音霊場(現18番の札所)となったと伝えられる。 建仁元年(1201)親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。 本堂は幾度も火事に遭い再建を繰り返してきた。今の本堂は1877年建造。 |
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由来は、長徳2年(996)花山法皇の六角堂の御幸により西国三十三所観音巡礼が始まったことを受け、 花山院前内大臣が六角堂の桜を見て詠んだ「世をいのる春の始めの法(のり)なれば君か御幸のあとはありけり」 から名付けられたものである。 六角堂御幸桜は、早咲きの桜で、いち早く京都に春の始めを告げてくれる。 |
2022-5-16 朝日新聞より |
京都の中心と云われるヘソ石がある。 小野妹子が専務と名をあらため、聖徳太子沐浴の泉の 坊に朝夕花を供えたのがはじまりで、これが池坊華道の はじまりにもなる。 |
桓武天皇の延歴12年(793)京都へ遷都の時、 六角堂の所在が道路の中央に当たったので天皇が遷座を祈願されたところ、 御堂がにわかに5丈ばかり北へ退かれたという。 この石はその際に取り残された礎石であると伝える。 また京都のほぼ中央に当たるところからへそ石とも要石とも呼ばれる。 へそ石 本堂古跡の石ともいい、京都市街の中心石として伝わる。こんにちでは、 東門内に移して石畳のなかに封じ込んである。
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本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、 多くのいけ花の名手を輩出した所で、 華道発祥の地として有名である。 現在も池坊華道の拠点となっている。 本堂建造の後、 太子は本尊の守護を小野妹子に命じた。 妹子が池のほとりに坊を建て、花を供えたのを、 代々住職が伝えたのが生け花の始まりという。 池坊⇒⇒⇒ |
神明神社について 豊園学区の神明町 (綾小路通り?高倉から東洞院の間 )に神明神社がある。ここは平安末期、 近衛天皇 (約八百五十年前 )が、しばしば皇居とされた藤原忠通 (摂政 )の屋敷跡で四条内裏 または四条東洞院内裡ともいった。この邸内にあった鎮守の社が神明神社である。 天照大神を祭神としている。創建年代は明らかでないが、藤原時代から今日まで人々の崇 敬の社になっている。 当社の宝物に「やじり 」がニ本伝わっている。社伝によると、近衛帝の時、頭は猿、尾は蛇、 手足は虎の「鵺 (ぬえ )」という怪獣が夜毎空に現われ都を騒がせた。これを退治せよとの命 を受けた源三位頼政は、神明社に祈願をこめ、みごと怪獣を退治したその御礼に奉納した 弓箭である。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。この「やじり」は今でも祭 礼の時に飾られる。 藤原末期から天台宗の護国山立願寺円光院という寺となり社僧によって管理されていたが、 明治初期の神仏分離によって神社だけが残され、神明町が管理の任に当たっている。昔、 榎の大木があったので、榎神明ともいう。 また、当社には豊園小学校内に祀られてあった文子天満宮の祭神が戦後合祀された。 文子さんは北野天満宮創建の功労者である。小学校に祀られてあった頃から区民の信仰が 熱い。 毎年、九月十五日には立派な子供御興が区内を練り歩き崇敬を集めていた。近年は都市 とともに子供も少なくなり、近隣町内を練り歩くだけとなったが、昔の趣きを今も伝えている。 翌、九月十六日は大祭日であり、かつては各戸趣向を凝らして飾物をし、町内いっぱいに 露店も出ましたが交通事情の変化に伴い趣きも変わり、現在は厄除・火除祈願の牌礼と神饌 を参拝者に授与しております。今も昔と変わらず町民?区民の神社詣も多く賑やかである。 文子天満宮のこと 文子天満宮は菅原道真が九州で逝去した延喜三年 (九百三年 )の頃以後、京都に災害が 相次いで起ったので当時の人々は怨霊のたたりだと信じていた。 天慶七年 (九四ーー年 )に右京七条二坊の多治比文子 (タチヒアヤコ )に「道真の霊をまつ れ」との神託があり、近江の神宮と協力して今の北野神社を創建した。 天神というのは天地異変を起こす恐ろしい神であるが、学問の神として崇められるようにな ったのは道真が大学者であることを知った平安中期以後のことである。道真の霊が、何故文 子という女性にあらわれたか判らないが、文子天満宮は文子を祭ったのではなく、文子が祭っ た天神という意味である。 本校の文子天満宮は、 明治三十年頃幼稚園と小学校の間の空地に祭られて学問の神とし て崇敬されていた。祭神は今なお現在神明神社に合祀されている 。 神明神社 神明神社について 豊園学区の神明町 (綾小路通り?高倉から東洞院の間 )に神明神社がある。ここは平安末期、 近衛天皇 (約八百五十年前 )が、しばしば皇居とされた藤原忠通 (摂政 )の屋敷跡で四条内裏 または四条東洞院内裡ともいった。この邸内にあった鎮守の社が神明神社である。 天照大神を祭神としている。創建年代は明らかでないが、藤原時代から今日まで人々の崇 敬の社になっている。 当社の宝物に「やじり 」がニ本伝わっている。社伝によると、近衛帝の時、頭は猿、尾は蛇、 手足は虎の「鵺 (ぬえ )」という怪獣が夜毎空に現われ都を騒がせた。これを退治せよとの命 を受けた源三位頼政は、神明社に祈願をこめ、みごと怪獣を退治したその御礼に奉納した 弓箭である。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。この「やじり」は今でも祭 礼の時に飾られる。 藤原末期から天台宗の護国山立願寺円光院という寺となり社僧によって管理されていたが、 明治初期の神仏分離によって神社だけが残され、神明町が管理の任に当たっている。昔、 榎の大木があったので、榎神明ともいう。 また、当社には豊園小学校内に祀られてあった文子天満宮の祭神が戦後合祀された。 文子さんは北野天満宮創建の功労者である。小学校に祀られてあった頃から区民の信仰が 熱い。 毎年、九月十五日には立派な子供御興が区内を練り歩き崇敬を集めていた。近年は都市 とともに子供も少なくなり、近隣町内を練り歩くだけとなったが、昔の趣きを今も伝えている。 翌、九月十六日は大祭日であり、かつては各戸趣向を凝らして飾物をし、町内いっぱいに 露店も出ましたが交通事情の変化に伴い趣きも変わり、現在は厄除・火除祈願の牌礼と神饌 を参拝者に授与しております。今も昔と変わらず町民?区民の神社詣も多く賑やかである。 文子天満宮のこと 文子天満宮は菅原道真が九州で逝去した延喜三年 (九百三年 )の頃以後、京都に災害が 相次いで起ったので当時の人々は怨霊のたたりだと信じていた。 天慶七年 (九四ーー年 )に右京七条二坊の多治比文子 (タチヒアヤコ )に「道真の霊をまつ れ」との神託があり、近江の神宮と協力して今の北野神社を創建した。 天神というのは天地異変を起こす恐ろしい神であるが、学問の神として崇められるようにな ったのは道真が大学者であることを知った平安中期以後のことである。道真の霊が、何故文 子という女性にあらわれたか判らないが、文子天満宮は文子を祭ったのではなく、文子が祭っ た天神という意味である。 本校の文子天満宮は、 明治三十年頃幼稚園と小学校の間の空地に祭られて学問の神とし て崇敬されていた。祭神は今なお現在神明神社に合祀されている 。 神明神社 |