四天王寺(してんのうじ)地図

     
 石舞台(重文)、奥は六時堂  石鳥居(重文) 忍性が建立した石の鳥居  北鐘堂(上)
 和宗総本山
 推古天皇元年(592)聖徳太子によって建立せられたわが国最初の官寺で、法隆寺よりも14年早くできた。
伽藍の中心部はたびたび災害をうけたが、百済式の伽藍配置とその四周(300m四方)は当初のままであり
、いまも六時堂・五智光院・湯屋方丈・通用門・元三師堂など元和再建のもの(重文)が残っており、
永仁二年(1294)建立の西門石鳥居、淀君寄進と伝える石舞台(共に重文)もあり、境内全域は史跡に指定せられている。
(「大坂冬の陣」などで7度も被災し、その度に再建された)
 仏教が日本に伝来したのは、538年のことだったとされている。その54年後に、日本最初の官寺である四天王寺が建立された。
 西大門の真西にあり、別名「発心門」
扁額に「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」(四天王寺は釈迦如来が仏法を説かれている場所であり、
当院の西門は極楽浄土の東門の中心に当たっている。)と書かれており、春秋彼岸の中日には、
西大門より鳥居の中心に沈む夕日を拝む日想観が行われている。
 永仁2年(1294)に造られた石造りの最古の鳥居の一つ。 
操り人形 聖徳太子  法隆寺 橘寺 百済   六角堂頂法寺 
叡福寺 仏教のはじまり  僧寺と尼寺  四天王寺創建の由来  
法隆寺の謎 亀形石造物 蘇我氏陰謀の挫折 推古大道   
竹之内街道   飛鳥時代とは  百済大寺 大聖勝軍寺  
物部氏 古代豪族   秦河勝  忍性生誕地碑  忍性    
     
 西大門(極楽門)  金堂 本尊久世観世音菩薩が安置され、
    その四方に四天王象を祀っている。
講堂 夏堂と冬堂に別れ、夏堂に阿弥陀如来坐像、
    冬堂に十一面観世音菩薩を祀っている。
伽藍配置比較⇒⇒⇒
 回廊、東重門
推古元年(593)の創建である。
昭和三十七年(1962)松下幸之助氏の寄贈により再建されてからは、極楽に通ずる門の意味から極楽門とよばれるようになった。 
 
 亀井堂内の亀と水槽(右)
亀形石造物⇒⇒⇒
転法輪 西大門から、金堂、西重門、五重塔
五重宝塔 推古天皇元年(593)聖徳太子の創建以来
       度重なる戦火天災により伽藍が7度も焼失したが、
       その都度再建を重ね、現在の塔は
       昭和34年8度目の再建である。
       造りは鉄骨鉄筋コンクリート、本瓦葺。
 転法輪(てんほうりん)
「法輪は、お釈迦様の教えが他に転じて伝わるのを輪にたとえたもので、仏教の象徴です。
転法輪を回すとき、あらゆる迷いの心が滅し、身心が清浄となりますように、と念じ合掌し、軽く右に回す。」
 「四天王(由来)
古代インドでは、世界の中心が帝釈天の住む須弥山と考えられていました。
その山の中腹で東西南北の四面に配し、仏法に帰依する人々を守護する護法神が四天王であります。
聖徳大師は四天王ご加護によって物部守屋との合戦に勝利し、法御謝徳のために建立されたのが四天王寺なのです。」
密迹金剛力士 中門(仁王門) 那羅延金剛力士
 中門は寺中心伽藍の最南端にあたり、脇の間に仁王尊像を祀っていることから俗に仁王門と呼ばれている。
仁王像の重さは約1ton、身長は5.3m、顔の大きさ70cm,足の親指の幅13cm、
大きさでは奈良東大寺の仁王様に次いで2番目と言われる。
南大門
 

伎楽飛鳥時代の芸能⇒⇒⇒



金剛組地図
安居神社地図
真田幸村戦没地地図
天神坂地図
清水寺地図
愛染堂地図
大江神社地図
真田山陸軍墓地地図



金剛組

 
創業 飛鳥時代 第30代敏達天皇7年(578)
世界最古の企業

 四天王寺とともに飛鳥時代から歩んできた金剛組は

「世界最古の企業」と称される。 金剛組の刀根健一会

長は「われわれが手掛けるのは多くの人々の信仰の対

象ですから、一切の妥協は許されず、常に力のある宮

大工を先頭にたててきました。徹底した実力主義がゆ 

えに1400年以上も歴史を刻むことができたのでしょう」
と強調する。

 伝統を維持する心得を遺(のこ)したのが江戸時代の
32世金剛喜定である。 現在の金剛組は、太子の十七
条憲法にならった「幹部十七条憲法」として指針を示す。

 そこでは信仰心、勤勉、誠実、礼節、公平、謙虚、職責、
信頼、身分相応の生活・振る舞いなどの大切さをうたう。

 刀根会長は「寺社の建築様式、日本人が求める伝統

美は変わらないでしょう。だからわれわれの仕事にも

変わらぬものが求められます。そのことを、金剛組や 

宮大工を生んだ聖徳太子に向き合うことで、いつも意

識するよう努めています」と思いを込める。
  2021−12−12  産経新聞





安居神社
天神坂

   

真田幸村陣歿の旧跡

 元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に

大軍を率 いて大阪城を攻めた。ここに於いて

大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って

出でて戦い、五月六日幸村は 後藤基次、薄田

兼相等と大和口を防がんとL て 河内 の片山

道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって

伊達政宗の兵と戰い、翌七日は天王寺附近に

松平忠直の軍を迎え奮戰Lたが、ついに当社

境?一本松の下で戦死した。時に年齢四十九?

であった。当時の松は既に枯死Lたが、社殿

復興を機に昭和二十六年四月二十四日これを,

記念Lて植樹された。

 例年五月に幸村祭が盛大に行われる。

 
   
 
 
 天神坂


清水寺
清水坂

 
 
 清水坂
新清水清光院に登る坂道をいう。
高台にある新清水寺境内からの眺望
は格別で、さらに境内南側のがけから
流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の
滝として知られている。また、この
付近一帯は昔から名泉どころとして
知られ、増井、逢坂、玉出、安居、
土佐、金竜、亀井の清水は七名泉と
呼ばれている。

【玉出の滝】

 本寺南側の谷にあります玉出の滝は、四天王寺金堂下にある青竜池から

滔々として流れ出る白石王出の霊水が此処に滝となったものであります。

聖徳太子御本願縁起に「青竜恒守護麗水東流号日白石玉出水以慈悲心飲之為法楽」

とありますように霊験は殊の外あらたかであります。御本尊不動聖明王は、

観世音菩薩の化身でありまして「一切の衆生を煩悩苦悔から

抜済せんが為、或は長寿を得しめんが為、或は一切智々者たらしめんが為」

の御本顧深き霊尊であります。故 に、一心に御直真言の

ナマクサマンダバサラナン、センダ、マカロシヤナ、ソワタヤ、ウンタラタ、カンマン」

を御称名になれば必ず抜苦与楽福寿増長、心顧成就すること疑いありません。



愛染堂
愛染坂

   
   

 家隆塚からすぐ南にそびえ立つのは、「愛染さん」として親しまれている愛染

堂勝鬘院の多宝塔だ。江戸時代に出版された「摂津名所図会」の勝鬘院の絵に

は、 多宝塔のすぐ近くにこんもりした土盛りの上に松の木が植わっている家隆

塚が描かれている。

 愛染さんの山門前から坂が下っている。これが真言坂、源聖寺坂、口縄坂に続

く天王寺七坂の一つ、愛染坂だが、坂を下りるのは後にして、大阪案内人の西俣

稔さんと、愛染さんの朱塗りの門をくぐる。ここの夏祭り「愛染まつり」は、大阪の
夏祭りの幕開けとな
る。

 本堂の裏手に回り、高さ22mの多宝塔を見上げる。

聖徳太子によって593年に創建されたが、織田信長と石山本願寺の戦の際、
願寺勢が「勝鬘の城」と称して塔に立てこもって戦ったため、信長によって焼か

れてしまった。 豊臣秀吉が戦勝祈願のために1597年、再建したものが今に残

る。 国の重要文化財で、大阪市内で最古の木造建造物だ。塔の内部には、
再建の
際に奉納された極彩色の壁画がある。1902 (明治35)年のサンフランシ
スコ
万博に、日本建築の代表として模型が出展された。

 再建の折、秀吉が植えたという、紅白の花が同時に咲く日月梅があったのだ

が、戦災で枯れてしまった。

愛染さんに50年務める90歳のおばあさんは「そら、きれいやった」と懐かしむ。

その跡には碑が建っている。

 愛染さんで連想するのは「愛染かつら」。作家、川口松太郎の小説で、1938
(昭和13)
年に映画化されたから、年配の方にはおな」じみだろう。 子持ちの未亡

人の看護婦(今は看護師というが) と大病院の息子との恋愛を描いて、「花も嵐

も踏み越えて」の主題歌とともに大当たりした。主演は田中絹代と上原謙。

 本尊の愛染明王は愛の神様で、良縁を願う男女の参詣が昔から絶えず、

縁結びの霊験あらたかとされた霊木が「愛染かつら」。川口松太郎は東京生ま

れだが、関東大震災後、逃れてきた大阪で、この霊木をモチ-フに小説にした。

「桂の大樹にかずらが絡まるさまが、夫婦や男女の愛を表わしているといわれ

てるんです」。西保さんが愛の解説をするのがおかしい。その霊木は上部が切ら

れている。空襲で焼けたのだ。 山岡武明住職(35)によると、 多宝塔と、 徳川秀忠

が1602年に再建した本堂以外は焼かれてしまったという。

 霊木の傍らには、戦後の62年、リメークされた映画で主演した岡田茉莉子ら

が、ヒットを祈願して植えた桂の木が、ハート形の葉を茂らせている。「霊木は

枯死しているんですが、かずらはだんなさんが死んでも浮気せずに寄り添ってい

るわけです。今も映画を知らない若い方々が来られます」と山岡住職

 ロマンチックなお寺ですね。じゃ次に行きましょうか。「いえいえそれだけ

じゃないんです」と西俣さんが引き止める。「ここは社会福祉発祥の地。貧しい

人を敷うのが愛染さんなんです」

松井宏員

 
   
大カ金剛尊

 この大力金剛尊は、清王朝時代のも

ので、 大正時代に活躍した、大阪市

天王寺区出身の横綱(第二十六代)

大錦が満州巡業の折りに、自身の守

護神として気にいつて中国から持ち

帰られた仏様です。

 初めは大阪国技館に奉安されていま

したが、昭和二十五年に愛染堂に

縁あつてやって来られました。

特にスポーツや勝負事には霊験あら

たかで、勝利開運・善因善果の功徳

があり、又盗難・火災等の災難除け

としても篤く信仰されています。

愛染めの霊水

 この井戸は常に清浄の霊水が湧き出

で、この井水を飲めば愛染明王の

御本誓により愛念を叶え、病癒え運

を開き給う。 古歌に

「ほらぬ井にたまらぬ水の汲みたて

      影も形も なき人ぞ汲む」

かくの如き霊水なれば、この井水に

て染め物なせば、色彩よ<染まるを

もつて昔より、藍商者の門に信仰が

盛んであつて、俳句に

 「賑わしや 愛染詣での紺屋づれ」

井戸屋形は豊公の建立であつたが、昭和

二十 年三月十四日の戦災のため焼失した。

 薬を与えて治療を施した四天王寺の施薬院として、聖徳太子(厩戸皇子)により593年

に建立されたと伝わる「愛染堂勝蔓院」。

本尊・愛築明王

 手に持った弓と矢で、人や心を結び付けるとされ、夫婦円満・商売繁盛のご利益で知られ

る。「家族連れが増えた。コロナ禍ですがる場所を求めて来られるようになったのでは」

と山岡武明住職。

 境内には、大阪市内最古の木造建造物で国の重要文化財「多宝塔」があり、豊臣秀吉が

戦勝祈願のために造らせたといわれる天日大勝金剛尊像や、極彩色で描かれた十二天の壁

画も納められている。

 大阪三大夏祭りの一つ「愛染まつり」 を毎年6月30日から開催しているが、今年は検討

中。山岡住職は「感染拡大の状況も踏まえ決断したい」と話す。
 2021−5−17  朝日新聞 (井上正一)

 愛染さんじゃ⇒
 
 
 愛染坂



大江神社

   
祭神 豊受大神
    素戔嗚尊
    欽明天皇
    大己貴神
   少彦名命
 
   


真田山陸軍墓地

   

真田山陸軍墓地

 本墓地は、一八六ハ九年(明治二年)から一八七○年にかけて我国陸軍の中枢機関が次々と大阪

に創設されたことに伴って、一八七一年(明治四年)に日本で最初に設置された陸軍墓地で、現在の

面積は約一五、○九〇平方メートルあります。

このような陸軍墓地は戦前、全国で八〇箇所以上つくられましたが、それらの中で最も大きな規模

を持つ真田山陸軍墓地は終戦当時の景観をよく残していると言われています。

 終戦に伴い一九四五年(昭和二十年)十二月陸軍省が廃止され、大蔵省の所管する国有財産と

なりましたが、一九四六年(昭和二十一年)八月に大蔵省との国有財産無償貸付契約により、貸付

を受けた大阪市が管理をし今日に至っています。

 墓地内には、一八七三年(明治六年)の徴兵令施行以前に属する兵士の墓碑にはじまり、西南

戦争や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、先の大戦終結後に設置された墓碑を含め

約五、一〇〇基の個人墓碑、日露戦争・,満州事変戦病没将兵合葬碑並びにアジア太平洋戦争の

戦病没将兵約八、二〇〇人の遺骨等を納めた納骨堂があります。また、軍役夫や日本軍の捕虜

となった清国兵、ドイツ兵の墓碑、及び兵役従事中の平時病死者の墓碑もあることがこの墓地の

特徴となっています

 これまで二回にわたり研究者による大掛かりな墓碑や納骨堂をはじめとする当墓地に関する

学術調査が行われ、多くの貴重な事実が判明いたしました。

 当墓地では、大阪市と締結した確認書に基づき公益財団法人真田山陸軍墓地維持会が、毎年十

月に埋葬・納骨せる戦没者の慰霊祭を行うほか、特定非営利活動法人旧真田山陸軍墓地とその保

存を考える会による当墓地に関する調査・研究、史料の公開や見学者に対する案内等、多くのポラ

ンティアの皆様に支えられながら、墓地の除草清掃を行い環境維持活動や傷んだ墓碑の修復・保存

のための事業を行っています。

 ここを訪れる方々は、整然と並んだ多くの将兵の墓碑にまず圧倒され、そしてそこに刻まれた文字

を読み取るとき、必ずや平和の尊さを実感されるものと存じます。

           二〇一六年(平成二十八年)三月

                        公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会

                                                  理事長 吉川秀 隆

 この案内板は、管理者である大阪市の承認を受け、右の法人が設置しています。

  動画    真田山陸軍墓地⇒⇒⇒
全動画⇒⇒⇒ 


玉造稲荷神社

   
 
     
 豊臣秀頼公 摂津名所図会   秀頼公奉納鳥居

豐臣秀頼 慶長8年(1603)3月吉日銘 奉納鳥居

大坂夏の陣、慶長 20年(1615)また第二次世界大戰、昭和20年

(1945)6月1日と二つの戦褐を乗り越えて参りましたこの島居

は平成7年(1995) 1 月17日早朝の阪神。淡路大震災により基礎

に損傷を生じ、建立以来 400年間「大坂城の鎮守神」として、その

歴史的シンボルに幕を閉じここに保存することとなりました。