随心院地図

 真言宗小野流の大本山で、正暦2年(991)弘法大師第八世の
法孫仁海僧正の開基であって、もと牛皮山曼荼羅寺といって。
当院は真言宗小野流発祥の地であって、第五世増俊が門跡
塔等に随心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡
の宣旨をうけ、以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡と称した。
 その後、応仁の兵火で炎上したが、
慶長4年(1599)九条家から入った第二十四世
増孝再興し今日に至っている。
 本堂は再興当時のもので、
本尊如意輪観音菩薩像等を安置する。
 
 
  小野小町は、六歌仙・三十六歌仙の一人にかぞえられ、
「古今和歌集」に紀貫之の評や小町自身の歌が載せ
られているところからも、実在したことはたしかと云われている。
しかし、生年没年、享年も不明。実名もわからない。
「小野氏系図」によれば、出羽の郡司小野良真(よしざね)の娘、
(たかむら)の孫となっている。
   花の色は移りにけりないたづらに
    我が身世にふるながめせしまに

といった歳月の移り変わり、容姿のおとろえを暗示するような歌がある。
百人一首9  小野小町   紀貫之 
謡曲 小野小町坐像  

隨心院門跡の由緒(史跡)

当山は、真言宗善通寺派の大本山にして、弘法大師御

入定後、百二十一年、弘法大師より八代目の弟子にあ

たる、仁海僧正の開基にして、一条天皇の正暦二年(西

暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立され

ました。古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。仁

海僧正一夜の夢に亡き母が牛に生まれ変わっているこ

とを見、その牛を鳥羽の辺に尋ね求めて飼養しました

が、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼

羅の尊像を描き、本尊としたことに因んでいます。牛

尾山は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて菩堤を弔った,

と伝えられています。又、仁海僧正は深く宮中の御帰

依を受け、勅命により、神泉苑(御池大宮西)に請雨の

法を九回も行い、その度に霊験あって雨が降ったので

雨僧正とも称されました。その後第五世、搶r阿闍梨

の時に曼荼羅寺の子房として隨心院を建立し、ついで

第七世、親厳大僧正が寛喜元年(西暦1229年)後

堀河天皇より門跡の宣旨を賜わり、以来隨心院門跡と

称されています。堂舎も次第に整備され七堂伽藍は壮

美を誇っていましたが、承久應仁の兵乱にあってこと

ごとく灰となってしまいました。

その後慶長四年(西暦1599年)に本堂が再建され

以後、九条二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由

緒をもって寄進再建されました。


小野小町由緒の遺跡

 古来、小野と呼ばれていたこの地は『和名抄』の「小

野郷」に相当し、小野氏の栄えたところであり、醍醐

天皇陵東には小野寺と称する小野一族の氏寺の遺跡が

近年発見され、この地方の大宅、和邇、宮道氏と共に

勢力を持っていました。

『群書類従正編』によれば、小町は小野篁の孫にあた

り、出羽の国司を勤めた良実の娘であるとされていま

す。又、『日本人名辞典』には、出羽の郡領小野良実

の娘にして、仁明の朝五節の舞姫として、宮中の後宮

に仕え、容貌秀絶にして、一度笑めば百媚生じ、又

和歌は巧にして、悽婉女流第一の名手たり、とうたわ

れています。

なお、当時の書家小野道風は小町の従兄にあたる人で

す。小町の生涯は判然とはしませんが弘仁六年(西暦

815年)頃生まれ、平安朝初期、仁明天皇が東宮に

あられた時より崩御されるまでお側に仕え特に盛艶優

美、詠歌の妙を得た小町は東宮の寵幸を一身に受け

即位されてからは更衣として仕えられました。嘉祥三

年(西暦850年) 、仁明天皇御年四十一才にて崩御

された後、山城国深草の山陵に葬られ、俗に深草帝と

称されました。仁明の御代も終わり、年改まった仁寿

二年(西暦852年) 、三十才を過ぎた頃宮仕えをや

めて、小野の里に引きこもり晩年の余生を送ったと伝

えられています。「都名所図絵」には、「小野隨心院、

勧修寺の東なり、曼荼羅寺と号す、又、小町水、門?

南の薮の中にあり、此の所は出羽郡領小野良実の宅地

にして、女小野小町つねに此の水を愛して艶顔を

し」とあります。又、この地に語り伝えられる最も有

名なものは深草少将百夜通(ももよがよい)の話で

ありましょう。

小町を慕って小野の里に、雨の夜も雪の夜も通いつづ

けたが九十九日目の夜、降る雪と発病により最後の一

夜を前に世を去った深草少将の伝説であります。この

時小町は榧の実にて数を取り後に小野の里に播いたと

言われています。夢にしか逢えない人を思い、多くの

夢の歌を残し、後世六歌仙の第一人者と評され、小倉

百人一首の「花の色はうつりにけりないたづらにわが

身世にふるながめせしまに」と哀愁に富み、情熱的な

歌は華やかな盛艷時代を想い、人生のはかなさを歌っ

たのはあまりにも有名であります。この世を去ったの

も又、判然としませんが仁和寛平の頃、七十才を越し

て亡くなったと伝えられています。

建築 仏像 宝物
本堂  慶長四年(西暦1599年) 、桃山期の建築で、

     寝殿造りの堂内には本尊ならびに諸仏が奉安されてい

       ます。


薬医門  玄関 書院   いずれも寛永年間(西暦162

        4年-1631年)の建築で九条家ゆかりの天真院尼

      の寄進によるものです。玄関の左右に小玄関、使者の

      間があり、襖絵は狩野永納の時代のもので花鳥山水の

      図、四愛の図が描かれています。


奥書院  徳川初期の建造で、狩野派の筆による舞楽

      図、節会響宴の図、賢聖の障子、虎の図よりなってい

      ます。


能の間  宝暦年間(西暦1751年ー1764年)九

      条家の寄進によるもので平成三年に改修されました。


総門 庫裡  宝暦三年(西暦1753年)二条家より

      移築されたもので、庫裡は二条家の政所であったもの

      です。

本尊如意輪観世音菩薩座像   鎌倉時代の作

阿弥陀如来座像    平安朝藤原時代定朝作(重要文化財)

金剛薩タ座像   鎌倉時代 快慶作(重要文化財)

薬師如来座像    平安時代

不動明王立像   平安時代知証大師御作

小野小町文張地蔵尊像  平安時代小野小町作(伝)

卒塔婆小町座像   鎌倉時代恵心僧都作

三十六歌仙   小野小町歌仙切 室町時代作

愛染曼荼羅   平安時代(重要文化財,博物館出陳)

蘭亭曲水屏風   (二双)桃山時代狩野山雪筆(重要文化財)

古今集序     (一幅)平安時代小野道風筆


小野小町文張地蔵尊像

多くの人びとから寄せられた文を下張りして作り、罪

障消滅を願うとともに有縁の人びとの菩提を祈ったもの、
と言われ
ています。


卒塔婆小町座像

小町晩年の姿を写したものと言われ、とくに座法は古

代の風習を伝えた珍しい像です。


文塚

境内の本堂裏にあり、深草少将をはじめ当時の貴公子

たちから小町に寄せに寄せられた千束の文を埋

めたところ、と伝えられています。


化粧の井戸

小野小町の屋敷跡に残る井戸で、小町が朝夕この水で

粧をこらしたと、『都名所図絵』に記されています。


小野の里に茂る榧の大木

深草少将の百夜通いの折、小町は榧の実を糸に綴って

数をとり、後にその実をこの地に播いたもので、かつ

ては九十九本あったと伝えられています。

昔の名残りをとどめて、今日でも榧の実の上部左右対称に糸

に綴った小さな跡が見られます。


深草少将百夜通いの道

化粧井戸の西側にあり、深草から小野に通じる小径と

して、かつてはひなびた茶店が跡を守っていましたが

今では跡形もとどめていません。


随心院門跡の由緒より
   
 この付近は、小野小町の旧跡と伝え、境内には小野文塚、
化粧の井戸があり、小野の恋文をはったという文張地蔵菩薩も安置されている。