観音寺地図

地祇神社地図

京都 散策ガイド
本堂
 真言宗智山派に属し、大御堂(おおみどう)とも普賢寺(ふげんじ)とも呼ばれる。
天武天皇の勅願で義淵僧正が新山寺(筒城寺)を建立し、奈良時代に聖武天皇の勅願により、
天平16年(744)良弁僧正が再び造営し、伽藍を増築、新山寺を取り込み、
息長山普賢教法事(そくちょうふげんきょうほうじ)と号し、良弁の高弟で奈良のお水取りをはじめた
実忠和尚を第一世とした。またその時に大御堂本尊として丈六観世音を安置したという。
 この観世音が今に伝わる十一面観音立像(国宝)であると伝えられる。
この像は、等身大の木心乾漆造りであり、少年のような初々しい顔だち、
引き締まった肉付きの良い体軀など、天平彫刻特有の緊張感があるといわれる。
聖林寺と比較され、奈良時代後半頃に製作されたものとされる。 
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地祇神社
大国主命大山祇命活気長足比売命をまつる式内社である。
明治初めのころは地主神社と呼ばれていた。
二月堂竹送り
復活の地の碑
東大寺⇒⇒⇒



地祇神社

   
祭神 大国主命 大山祇命 活気長足比売命

式内社

 明治初めのころは、地主神社と呼ばれていた。

 正德元年(一七一一)の『山州名跡志』は、大御堂(現在の

観音寺)の鎮守として権現大明神と地主権現のニ社がみえる。

 現在の本殿は三問社の流造て覆い屋のなかにある。この覆屋の石壇に
「天文十辛丑年(一五四一)卯月吉日大西備前守」と
刻まれたものがある。

 当時このあたり普賢谷の地侍たち惣氏神の朱智神社や惣氏寺の普腎寺
を中心には束し大西氏ば指導的立
場のひとりであった。.元亀四年
(一五七三)将軍足利義昭か
槙島城で織田信長に対し挙兵る敗れ美昭は
普賢寺
谷を経て河内若江城へ出奔する。地元の所伝ては大西備前守敏元
が足利側てこれに参戦し将軍に従い
若江城で討死したとされる。

 例祭

 十月十八日

 京田辺市敖育 委員会|

 京田辺市文化財保護委員会