都祁山口神社地図

都祁水分神社地図

聖武天皇堀越頓宮之跡地図

都祁氷室 
氷室神社地図

   
祭神 大山祇神
    大国主命  
     
 当社は古代闘鶏(つげ)の国鎮守として奉祀され、大和の国の14所山口神(又は13、畝傍・耳成を入れず甘樫)
の一つで、都祁村の山霊を祀る。
天平2年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)に「都祁神戸」、大同元年(808)牒(新抄格勅符抄)
「都祁山口神一戸大和」とあり、当社をさす。
 同所に祀られていた都祁水分神社は、天禄2年(981)9月25日に友田の阪窪山に移され祀られている。
 当社神主職は神八井耳命の子孫都祁直の末裔と伝え、貞観年間より藤原氏を称した。以来父子相継ぎ、
小山戸殿とも称せられ、暦応年中(1338ー42)の伊勢の北畠氏に属して北と改姓、
大乗院小山戸庄の下司職をも兼帯したという。
 戦国の争乱によって神社は衰退したが、北左京之進が寛永年中(1624ー44)に郷民を勧めて社殿を造立した。
延喜式にも、国が祭りを司る神社として記録されている。  
 天理市杣之内町にも都祁山口神社がある。
 奈良の山口神社⇒⇒⇒  

都祁山口神社【奈良市都祁小山戸町】

祭神  大山祇命

『延喜式』にみ25山口社十三坐の一つとされる。 ,

「(甘樫)·飛鳥(以上明日香村)、石根・忍坂・長谷(以上桜井市)、吉野(吉野町),巨勢・·賀茂(以上御所市)、
當麻(葛城市)、大坂
(香芝市)、膽駒(いこま・生駒郡平群町)、都祁・養布(やぎふ)(以上奈良市)

「闘鶏国造」が、『古事記』に記載されている「都祁直」であると考えられ、その本拠地として、小山戸周辺が想定

されている。

社殿の南方の尾根上に「ごしゃお」とよばれる巨石がある。前には鳥居も設けられており、祭祀の対象となっている。
このと
とは、大樹や巨石に神々が宿るという古来の自然信仰の一つといえる。

また、神社の社頭、鳥居の北側に三坪ほどの雑木の叢林が、田の中に取り残されたように存在している。
地元では、「森神さん」
とよんでおり、禁忌的神聖叢林として今日に伝えられたものである。
このように、古
い民俗を遺している都祁の地域は、非常に興味深いところである。

「ツゲ」の表記

「都祁」『古事記』『続日本紀』『日本三代実録』『延喜式』ほか

「都家」『小治田安萬侶墓誌』

「都介」『日本三代実録』『倭名類聚抄』

「闘鶏(雞)」『日本書紀』

「竹溪」『懷風藻』

「竹谿」『延喜式』

以上、奈良市文化振興課

     
 本殿の裏山にゴシャオ(御社尾)とよばれる巨岩があり、古代より磐座として崇敬され、当社の歴史を示すものである。 





都祁水分神社
   
本殿 (重文)
祭神 速秋津彦命天之水分神国之水分神
 室町時代中期、明応8年(1499)に造営され
一間社春日造、檜皮葺の中世社殿(重文)
 本殿の前には、鎌倉末期の作と推定される一対の
狛犬があり、早期狛犬の秀作として注目されている。
 水の神 都祁水分神社

都祁水分神社【奈良市都祁友田町】

祭神 速秋津彦(はやあさつひこのみこと)
本殿
 一間社春日造【明応八(1499)年造営】(重要文化財)

その他 金銅装神輿【康正三(1457)年銘】(県指定文化財)

 『延喜式』祈年祭祝詞に「水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛
と御名は白して 」とある式内社の一つ
である。大和は四社の記載があり、飛鳥.

藤原京からみた、東西南北四方の水源地を祀ったものと思われる。

東:宇太水分神社(宇陀市菟田野古市場)

西:葛木水分神社(徲所市関屋)

南:吉野水分神社(吉野郡吉野町吉野山)

北:都祁水分神社(奈良市都祁友田町)

 桜井市から奈良盆地を北流して大和川に合流する初瀬川の源流部にあたる。
また、これより北側,東側に流れる水は、木津川淀川を経て大阪湾に注ぐこととなり、
分水嶺にもなっている。
 中世には、都祁郷の郷社として東山内衆とよばれた、
当地の人々の崇敬を集めた。

 もともと、都祁山口神社の傍に鎮座していたとされる水分神社であるが、
参詣するのに不便ということから、天禄二(971)年、
現在の友田の地に遷されたと、
『水分大明神垂迹記』に記されている。

このことは、都祁山口神社·都祁水分神社の秋の祭礼にも表れている。

10月25日(もとは旧暦9月25日)に水分社を発した神輿が山口社に渡御、一泊し

て、翌26日に水分社へ還御するものであり、千年の時を超えて今に続いている。

       
  拝殿    舞殿
 都祁水分神社は、大和の国水分四社(都祁・宇陀・吉野・葛城)のひとつで、速秋津彦命、天之水分神、国之水分神が祭られている。
水分は、”水配:山から流れる水が別れる所”を云い、当地では大和川と木津川の分配を司る神として古くより崇敬されてきた。
 すでに天平2年(730)の大倭国正税帳に「都祁神戸」と記せられ、延喜式にもある神社である。
 はじめは、友田の南方大字小山戸で祭られていたが、天禄2年(971)に、現在の場所に移されている。   
   
     
 


聖武天皇頓宮之跡

   都祁の里では大和と東国、伊賀・伊勢を結ぶ都祁の道が開かれて要地として栄えていた。ここは、天平12年(740)に、聖武天皇が東国行幸のおりに、400人に及ぶ供を連れ、一泊された頓宮(仮の宮)と伝えられているが、その場所をはっきり定めることは難しく、水分神社より北西約500mの山に「堀越し」と称する伊賀や伊勢の頓宮址と同様の地形があり、都祁の里の中でも古代史における史料学的検討のまたれる所でもある。 


氷室神社

 
   
   
 天理市福住町は標高500m近く、気温が平地より3~4℃低い。氷室神社はこの地の鎮守
となっている。
 奈良・氷室神社の祭神は、かって都祁氷室と呼ばれた頃の地からうつされた。
 日本書紀に仁徳天皇の弟がこの地で氷室を見つけたとあり、氷室跡とされる竪穴も数多く
残っている。 

氷室神社【天理市福住町】

祭神  闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎ

    大鷦鷯命(おおささ・仁徳天皇)

    額田大中彦命(ぬかた)

創建  允恭天皇3年(414年頃)

 全国的にも珍しい、「氷の神」を祀った神社である。

 昔、冷蔵庫のなかった時代、冬に池で氷をつくり、山に掘った穴に埋め、夏に取り

出して使った。その氷を埋めた穴を氷室と言う。その氷室を守るための神社が、
氷室神社である。この奈良東部山間地一帯は、
古代には闘鶏国(つげのくに)とよばれていた。『日本書紀』によると、

「仁徳天皇六十二年額田大中彦皇子が、闘鶏に狩りしたとき、野中に粗末な小屋を

見つけ、従者を使わして調べさせると、ムロだという。そこでこの土地を治めていた

闘鶏稲置をよんで尋ねると、氷室であると答え、その氷室の役割を説明した。

皇子はその氷室の氷を、持ち帰り天皇に献上した。

以後、夏になるとこの地の氷室から、氷を天皇に献上することになった。」

氷室神社の三柱の御祭神はこの由来によるものである。

他にも、奈良の春日氷室神社はじめ、京都などいくつかの氷室神社がある。

毎年7月1日に催される、「献氷祭」は、むかし、旧暦の6月1日に氷が献上され

たのに因んだものである。秋祭りには、氷室神社から、氷室跡のある御霊神社跡にお

渡りの行列などがあり、両大祭には、遠くは東海地方の製氷業者や冷凍業者等の参拝

もある。

平安時代には清原氏が氷室を管理していたが、戦国時代はこの地を治めていた福住

氏(福住宗職ふくすみむねとも)が管理し、この神社の神職も務めていた。


古代氷室跡

 福住は、奈良盆地と比較して、温度差が

五度近くもある。その気候条件を利用し古

代から氷室がつくられていた。

その古代の氷室跡が、福住町で、今も合計

23個残っていることが確認されている。ま

さに福住は、氷室の里と呼ぶにふさわしい

ところである。

今も残る古代の氷室跡

他に、奈良市(旧都祁村)や宇陀市にも氷室跡がある。

また昭和63年(1988)に、平城京長屋王邸宅跡から見つかった木簡に、都祁

(闘鶏に同じ)氷室のことが記されていて、奈良時代、この福住地方に氷室があり、奈良の

都に運ばれていたことが証明された。

福住地方から平城京への道はいくらか考えられるが霊亀元年(715)に開通した「都

祁山之道」(『続日本紀』より)

都が京都に移ってからも福住の氷室の氷は、

都へ運ばれていた。

復元氷室

地元の「未来(ゆめ)クラブ」の人たちが氷室を復元しようと立ち上げ、今は天理市

多世代交流事業として「氷まつり」が行われている。2月に復元氷室へ氷を入れ、7

月の「海の日」に取り出す。今年で17回目をむかえる。

O氷室の管理·氷室の氷の用途·運氷のルート

都祁山之道 霊亀元年(715)「続日本紀」

塔の森  六角六重塔 県指定文化財

永照寺下之坊 聖武天皇勅願寺 開基良弁僧正天平11年(739)
          本尊十一面観音立像は県指定文化財

福住氏と福住城  筒井氏との関係

西念寺  観音堂の十一面観音立像は県指定文化財

蔵輪寺 山田道安菩提寺


「都祁」と「水分神」

 

都祁氷室跡

     
  氷室は尾根を凹状にしたところにつくられる。谷底に造ると解けた水が溜り、氷の保存状態を悪くする。
冬の間に池に張った氷を切り出して、尾根を凹状にした窪みに入れる。溶けないように茅をかぶせて貯蔵する。
夏になると掘り出して皇室に献上した。