長屋王墓地図

 なだらかな稜線を描く大阪.奈良県境の生駒山。大小の古墳

が点在する山麓の「平群の谷」に入ると、生け垣に囲まれた陵

墓が姿を現す。奈良時代前期謀反の疑いで自害に追い込まれ

た長屋王の墓だ。正妻·吉備内親王の墓もそばに寄り添う。

 「続日本紀」は夫妻がともに生駒山に葬られたと記す。果た

して、「悲劇の宰相」はここに眠っているのか。残念ながら、

否定的な見方が多い。

 近年、王墓がある場所から原形をとどめない前方後円墳が確

認された。築造時期は、長屋王の時代から200年もさかのぼ

る6世紀前半。前方部は後年、削られて耕地になったが、後円

部の丘陵部分は残り、近くの円墳と合わせて「双墓」とする伝

承が地元に生まれたらしい。

 とはいえ、ほかに有力候補地があるわけではない。時の最高

権力者の面影を追いながら、寒風の住宅地を巡った。

 天武天皇の孫として出世を重ねた長屋王は、権勢を振るった

藤原不比等の死後、右大臣に昇進聖武天皇が即位すると、今

の首相にあたる左大臣に昇りつめた。漫画「長屋王残照記」を

描いた里中満智子さんは「冷静に振る舞い、礼を重んじ、勉学

にいそしむ知的タイプ」と、そのイメージを膨らませる。

 栄華は唐突に幕を閉じる。平城宮東南の邸宅が突如、兵に囲

まれた。率いたのは不比等の三男、宇合(うまかい)「秘かに左道
(妖
術)を学び、国家(天皇)を倒そうとしている」との密告があ

ったのだ。その2日後、政界の巨頭は妻と4人の男子を道連れ

に自らの命を絶った。

 田辺征夫·奈良文化財研究所長は多くの疑問点を挙げる。

「謀反の理由(左道)があいまいで、発覚から邸宅包囲までの

対処も極めて迅速。長屋王は抵抗もせず、無実とされた吉備内

親王までなぜ、自害したのか」 非皇族の光明子を皇后にしよ

うとした聖武天皇や藤原氏が、理を重んじる長屋王を障害にな

ると恐れた。さらに、その子らが「皇孫」扱いされ、後継天皇

の候補に浮上したため、一族を抹殺した 。これを事件の真

相とみる説が有力だ。

 長屋王の死から8年後、宇合ら藤原4兄弟が相次いで病死。

「王のたたり!とうわさされた。謀反も冤罪だ たとする見

方が今では定着している。

 滅ぼされた敗者が後に勝者(善)となる歴史絵巻を、古来

の地は温めていた。
2011-1-7 朝日新聞

文・大脇和明

正一位左大臣。父は天武天皇の長子.高市皇

子、母は天智天皇の娘·御名部内親王(元明天

皇の姉)。皇族として嫡流に近い存在だった。

吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の子で、兄は

文武天皇、姉は元正天皇。

長屋王 高市皇子の子で、天武天皇

の孫にあたる。吉備内親王は兄が文武

天皇、母は元明天皇、姉は元正天皇に

なった。長屋王は左大臣まで上りつめ

たが、目の上のたんこぶと見た藤原氏

から「国家を傾けようとしている」と

の嫌疑をかけられ、親子ともども自害

する。『続日本紀』には冤罪を示す記

述がある。

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