長屋王墓地図
長屋王邸 地図
藤原麻呂邸 地図
吉備内親王地図
長屋王墓整 奈良時代初期の政治家「長屋王」の墳墓とされている墓で宮内庁の管理。明治末か ら大正元年に整備され現在の姿となっている。 現状は直径15mの円墳で、明治36年記録では石垣で三重に囲まれていたという。 長屋王は天武天皇の孫で有能な政治家であり、また仏教にも深く帰依し「風月同天」 の袈装を唐に送り、高僧「鑑真和上」渡日のきっかけをつくったといわれている。 |
長屋王の事績と御墓 長屋王は、奈良時代初期の皇親政治家で、 神亀元年(724)に最高職の左大臣に就任し、 聖武天皇を盛り立てて政治を行っている。 孫である。神亀6年(729) 2月10日、皇位継承 にからみ、謀反の疑いで館を囲まれ、夫妻と 四人の皇子が自殺に追い込まれる。そして、 8月に天平に改元、藤原不比等の娘、光明皇后 『続日本紀』には夫妻が生駒山に葬られた とあるが、近世資料に平群梨本の,二つの塚が 夫妻の墓との伝承がみえ、明治末年頃に宮内 庁により現在のように整備されている 長屋王墓が直径約15m、吉備内親王墓が直 径約20mの円墳状をしている。 周辺の遺跡分布 梨本から三里にかけて、長屋王墓の周辺に は10基程の古墳が連綿と築造されている。 6世紀前半に全長約45mの前方後円墳で ある梨本南2号墳(後円部の中心が長屋王 墓と重複)が、中頃にはすぐ西に直径約28 mの梨本南1号墳が築造される。 後半になると、東300mに石棚のある横穴 式石室から馬具等が多数出土した県史跡三 里古墳等が築造される。 7世紀前半には北東200mに横穴式石室の 梨本東1・·2号墳が造られ、その付近には円 面硯等が出土した奈良時代の梨本東遺跡も確 認されている。 その後、平安時代末頃から尾根を削り、谷 を埋め、古墳を破壊しつつ耕作地の拡大を進 め、周辺の景観が大きく変貌している。 |
長屋王が唐の高僧に贈った千枚の袈裟が、 鑑真和上を日本に呼ぶきっかけとな
った。 山川異域 山や川で国は異なるが、 風や月は同じ天を戴いている。 このように私たちも、同じ仏の御弟子と して、共に縁を結ぼう。 日本の仏教界が乱れていたので、唐の国から戒律を授けてくれる高僧を求めて いたが、危険を冒して来てくれる僧はいなかった。だが、 この袈裟を見た鑑真和 上は仏教を深く理解する人が日本にいることを知って、6回も渡海に失敗を重ね、 7回目にようやく日本に上陸。 754年、 難波に到着。 759年、唐招提寺建立。 |
平群町HP |
氷室神社 | 聖武天皇像解釈が覆る |
吉備内親現 王墓 長屋王の正妻である「吉備内親王」の墓。現状は直径20mの円墳。 吉備内親王は天武天皇と持統天皇の長子草壁皇子と元明天皇の娘で、 |
平群町HP |
なだらかな稜線を描く大阪.奈良県境の生駒山。大小の古墳 が点在する山麓の「平群の谷」に入ると、生け垣に囲まれた陵 墓が姿を現す。奈良時代前期謀反の疑いで自害に追い込まれ た長屋王の墓だ。正妻·吉備内親王の墓もそばに寄り添う。 「続日本紀」は夫妻がともに生駒山に葬られたと記す。果た して、「悲劇の宰相」はここに眠っているのか。残念ながら、 否定的な見方が多い。 近年、王墓がある場所から原形をとどめない前方後円墳が確 認された。築造時期は、長屋王の時代から200年もさかのぼ る6世紀前半。前方部は後年、削られて耕地になったが、後円 部の丘陵部分は残り、近くの円墳と合わせて「双墓」とする伝 承が地元に生まれたらしい。 とはいえ、ほかに有力候補地があるわけではない。時の最高 権力者の面影を追いながら、寒風の住宅地を巡った。 天武天皇の孫として出世を重ねた長屋王は、権勢を振るった 藤原不比等の死後、右大臣に昇進聖武天皇が即位すると、今 の首相にあたる左大臣に昇りつめた。漫画「長屋王残照記」を 描いた里中満智子さんは「冷静に振る舞い、礼を重んじ、勉学 にいそしむ知的タイプ」と、そのイメージを膨らませる。 栄華は唐突に幕を閉じる。平城宮東南の邸宅が突如、兵に囲 まれた。率いたのは不比等の三男、宇合(うまかい)「秘かに左道 ったのだ。その2日後、政界の巨頭は妻と4人の男子を道連れ に自らの命を絶った。 田辺征夫·奈良文化財研究所長は多くの疑問点を挙げる。 「謀反の理由(左道)があいまいで、発覚から邸宅包囲までの 対処も極めて迅速。長屋王は抵抗もせず、無実とされた吉備内 親王までなぜ、自害したのか」 非皇族の光明子を皇后にしよ うとした聖武天皇や藤原氏が、理を重んじる長屋王を障害にな ると恐れた。さらに、その子らが「皇孫」扱いされ、後継天皇 の候補に浮上したため、一族を抹殺した 。これを事件の真 相とみる説が有力だ。 長屋王の死から8年後、宇合ら藤原4兄弟が相次いで病死。 「王のたたり!とうわさされた。謀反も冤罪だ たとする見 方が今では定着している。 滅ぼされた敗者が後に勝者(善)となる歴史絵巻を、古来 の地は温めていた。 文・大脇和明 |
正一位左大臣。父は天武天皇の長子.高市皇子、母は 天智天皇の娘·御名部内親王(元明天皇の姉)。 皇族として嫡流に近い存在だった。 吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の子で、兄は |
長屋王 高市皇子の子で、天武天皇の孫にあたる。吉備内親王 |
悲劇の皇子たち | 藤原氏の大陰謀 | 万葉賛歌 |
歌碑 | 続日本紀 | 年表729年 |
聖武天皇 | 光明皇后 | 興福寺 |
北円堂(興福寺)について | 氷室神社 | 添御縣坐神社 |
歌碑 うまさけを | 長屋王墓 | 鬼となった天皇 |
長屋王の変 | 天然痘の流行 | 藤原氏のうごき |
長屋王なきあとの藤原氏 | 天然痘平城京に猛威 | 栄山寺(語り部) |
舎人親王邸 | 舎人皇子 | 長屋王1 |
聖武天皇 重ねた遷都 | あをによし |
長屋王邸(平城京左京三条二坊)・ 平城宮のすぐ東南にある二条大路をはさんで南 側に長屋王邸、北側に藤原麻呂邸がある。 いずれ も1町占地で、宮殿近くの1等地になる。 麻呂邸 の方は二条大路側溝出土品で垣間見るしかない が、長屋王邸の方は建物配置や出土遺物がある程 度わかっている。長屋王邸の庭園は、 従来は東南 部に想定されていたが、 その後の調査から西南部 にもある可能性が出てきた。 まさにミニ宮殿であ る。 なお、 長屋王邸として機能していたのは彼が 自刃するまでの710 年代~720年代である。 木 簡等から邸内には馬、鶴、牛、 猿? などがいたこ とが想定される。また、独薬(こま)、琴、雅楽などを庭 園 (構造不明、曲水?)をみながら楽しんだ可能 性がある。 なお、三彩瓦は長屋王没後の8世紀後 半に使われたようだ。 |
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薬師寺 | 長屋王の変 |