今井町 散策ガイド(重要伝統的建造物保存地区)

歴史

 今井町は、東の飛鳥川、西の曾我川に挟まれた海抜約63mにあり、大和三山が見渡される位置にある。
 16世紀中頃には、一向宗の寺内町として発足したが、再度の戦火をへつつ、商業都市として変貌をとげ、江戸時代は大いに栄えた町である。
 町年寄の合議制で運営され、堺と並ぶ自治都市であった。
 周囲を濠と土居で囲み、9つの門を開いた環濠集落の形態をとっていた。
 旧環濠内には、東西約600m、南北約310mの町には今なお約650戸の江戸以降の伝統的な様式を保つ町家が、古い町割りと相まって残存しており、これ程整った地区は、全国的にも例はない。
  今井の地名は至徳・元中三年(1386)の興福寺一乗院の文書にみえますが、今井町の成立は戦国の世、天文年間(1532〜1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町が建設されたことに発します。一向宗の門徒が、都市計画に基づき今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらしました。永禄十一年(1568)織田信長が、足利義昭を擁して上洛以来、本願寺は反信長の旗を立て、今井もそれに呼応し、寺を中心とした城塞都市の形態を整え、抵抗しましたが、天正三年(1575)明智光秀を通じて信長に降服し、事なきを得ました。かくして信長から赦免の朱印状が今井郷に下され、「万事大坂同前」として自治特権を許されました。その後、大坂や堺などとも交流がさかんになり商業都市として変貌をとげ、江戸時代には南大和最大の在郷町となって、今井札(銀札)を発行するまでに栄えました。
 海の堺に対し、陸の今井と呼ばれ、最盛期には約4千人が暮らす商業都市として栄えた。
戦国時代、一向宗の門徒らが称念寺を造り、自衛のために豪や土塁を巡らせたのが今井町の始まりとされる。 
 四方に濠や土塁を巡らし、石山本願寺と協力して織田信長と戦ったが、1575年に降伏。その後自治権を認められ、商業都市として発展を遂げた。
和睦の条件の一つとして、濠を埋めることであった。濠は幅2m、深さ80cmあり一部がみつかっている。
 大和はほとんど興福寺領であったために、戦国期にあっては中世の旧態依然とした体制が古ぼけたままのこっていたが、しかし村に一向宗が浸透していた点では他の国々とかわらない。
 一向宗の側からいえば、新興の地侍階級を掌握したことで教勢が伸びたといえる。かれらは家来や小作人を持っていたため、地侍一人が入信すれば一統ぐるみが一向宗になるわけであり、地侍の場合からいえば他から攻められる場合、一向宗の組織がまもってくれることになるのである。このため、地侍の次男坊あたりが、一向宗の僧になった。寺を実家で建ててもらい、家来たちが、一向宗の檀徒になる。
 街道をゆく  今井の環濠集落  司馬遼太郎 より
 
 今西家
和 暦 西 暦 で き ご と
.
12~
13世紀
高市郡今井庄が成立する。
至徳3年 1386 興福寺領今井庄が文献にはじめて表れる。
16世紀まで興福寺の荘園として存続した。
天文年間 1532~
1555
今井寺町(武装宗教都市)が整う。⇒⇒⇒
永禄11年 1568 織田信長が足利義昭を擁して上洛以来、本願寺も反信長の旗を立てる。
天亀元年 1570 本願寺に呼応し今井も武装都市化する。
環濠・土居の始まり。⇒⇒⇒
天正3年 1575 今井卿民、信長軍に降伏する。⇒⇒⇒
文禄4年 1595 太閤検地で今井村と記され、計六町を数える。
寺内町の性格を残す。
家持466人 屋敷筆数522
(人口4,000人 家数1,200軒前後、と伝える)
慶長5年 1600 関ヶ原合戦後、一時幕府の天領となる。
元和7年 1621 今井兵部が今井の支配を命じられる。
今西・尾崎両氏が惣年寄に指名される。
寛永11年 1634 銀札(今井札)発行を許される。⇒⇒⇒
  16年 1639 惣年寄役に新たに上田氏を加える。
慶安3年 1650 今西家が建てられる。
延宝7年 1679 再び天領となる。 今井最盛期。
人口4,000人 家数1,082軒。
元禄10年 1697 この頃、金融業を営み大名貸しをする者が多くなる。
元文5年 1740 重税のため町民困窮し、この頃から戸口減少、町内に空き地が目立ち始める。
-今井衰退の兆し。
人口 3,786人 家数 924軒。
享和4年 1804 人口 2,795人 家数 797軒。 
安政元年 1854 東海道、東山道等大地震。
明治2年 1869 版籍奉還、高取県に属する。
  4年 1871 奈良県に属する。惣年寄今西氏が引き続き、市中取り締まりを命じられる。
  10年  1877 明治天皇が今井へ行幸される。(称念寺行在所)
  22年   1889 小綱と併せ今井町となる。
昭和2年 1927 奥丹後大地震。
  9年 1934 室戸台風。
  11年 1934 二上山地震。
  30年 1955 東京大学による町家調査が行われる。
  32年 1957 今西家が重要文化財に指定される。
  36年 1961 第二室戸台風。
  47年 1972 旧米谷家高木家音村家中橋家豊田家上田家が重要文化財に指定される。
  51年 1976 河合家が重要文化財に指定される。
  56年 1981 吉村家(旧上田家)が県文化財に指定される。
  60年 1985 山尾家が県文化財に指定される。
平成2年 1990 旧高市郡教育博物館(現今井まちなみ交流センター華甍)県文化財に指定。
同館内に今井町並み保存対策準備室を開設する。
  5年 1993 今井町まちなみシンポジュウムを開催する。
街並みの国宝といえる国の重要伝統的建造物群保存地区に指定される。(重伝建)
  7年 1995 阪神・淡路大震災起こる。
  9年 1997 全国伝統的建造物群保存地区協議会が開催される。
  10年 1998 今井町フォーラムを開催する。台風7号が家屋に大きな被害を残す。
  14年 2002 称念寺本堂、重要文化財に指定される。

今井町 歴史的町並み  橿原市教育委員会  より引用

今井町の成立は、戦国の世、天文年間(1 532--1555)この地に一向宗本願寺坊主

の今井兵部卿豊寿によって建設されたことに発する。一向宗の門徒が今井に

徇坊(稱念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらし、都市計画を実施した。

永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して入京以来、本願寺も反信長の旗

を立て、寺を中心とした城塞都市の形態を整え、抵抗したが天正3年(1575)

今井氏は今井宗久、津田宗及、明智光秀を通じて信長に降服し、事なきを得た。

かくして、大坂や堺などとも交流がさかんになり商業都市としての変ぼうを

とげ、江戸時代には、南大和最大の都市となって大いに栄えた。また堺とならび

自治的特権が認められ、惣年寄·町年寄を置き町政にあたった。今井町の町並み

は東西600m、南北310m、周囲に環濠土居を築いた城塞都市で、内部の道路も、

見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは軍事目的で

造られたが、江戸中期には、今井の商人の生命、財産を守ることに役立った。

今井町と自治及び歴史追加⇒