祟道天皇(すどうてんのう)地図

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 光仁天皇の第二皇子早良親王(さわら・750?〜785)。781年兄桓武天皇(同母兄)の
即位に伴って皇太子となる。
藤原種継暗殺に連座したとして,淡路に流される途中絶食して絶命。
怨霊を恐れて崇道天皇と追号。 
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藤原種継暗殺事件
 長岡京造営開始から1年半。新都建設が進んでいた延暦4年(785)9月23日。
造営の陣頭指揮に当たっていた造長岡京使・藤原種継が暗殺された。翌日、大伴継人(つぐひと)
ら数十人が捕らえられ、犯行を認めた継人らは斬刑に処された。10月になって皇太子であった
早良親王がこの暗殺事件に関与したとされ廃され、翌月、桓武天皇の長男・安殿親王(あて・平城天皇
が立太子された。9月28日に早良親王は乙訓寺(おとくに)に幽閉された。その後、
飲食を絶って無実を訴えたが、淡路島へ流される途上で餓死した。
 御陵の前の道路中の窪みにみる組石は古墳石室の天井石   
 桓武天皇は、平城京を山背の長岡に遷都させるため、延暦3年(783)に藤原種継を造営責任者に任命し工事が開始された。
しかし同4年9月に種継八島陵が工事検分中に暗殺され、その謀反の一人として長岡京の留守役であった皇太子の早良親王
にも嫌疑がかかり、捕らえられ皇太子を廃されて淡路島に流される途中に無実を訴えて憤死し、淡路島に葬られた。その後、
皇太子となった安殿親王の病気や天災・地災・疫病が起こり、また天皇の周辺にも不吉なことが続き、占ったところ、
早良親王と連坐した人々の祟りと出たので、淡路の親王の埋葬地には堀を築き、祟道天皇の号を追贈して鎮魂を図られた。
八島の地は緑の土地として御霊社(八島神社或いは祟道天皇社・式内社)と神宮寺があったが、明治になって社は、
東の場所に嶋田神社として遷座し、寺は廃寺となり、現在の御陵として整備された。




































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