長法寺
貝吹山
越智光雲寺
有南神社
念仏寺
天津石門別神社
越智氏
神武天皇社
嗛間神社
山の辺の道 散策ガイド | 飛鳥 散策ガイド |
本堂 本尊大日如来 | 表門 |
観音堂 |
石灯籠 重要美術品 | 鐘楼:江戸時代初期 梵鐘:延宝9年刻銘 |
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三神社 |
天満山長法寺(真言宗) 表門 鐘楼 本堂 観音堂 地藏堂 茶所 石造層塔などがあり 本尊は大日如来坐像で 室町時代未期の作であることがわかる本尊は 地方では 常門の大日さん又は牛滝さんと して親んている 扉の表面は見事な彫刻が あり外陣には絵馬 正德四年境内図等 数々 奉納されている 又鬼瓦には慶安五年の刻銘が ある 鐘楼は江時代初期の建立とみられる 梵鐘には延宝九年の刻銘があり天満山長法寺の 名が刻まれている 観音堂は宝歴十三年の 刻銘もあり建築年代は少し古く聖観音立像を 中心に三十三所霊場の現音像を祀る地藏堂は 享保十二年の黑書があり千体仏後ろには古い 千体仏があり 二重になっている 又側板壁に 地獄 極楽の絵が描かれている境内には巨樹が 茂リ 多くの石灯籠がある中も境内南側の 小高い処に建つ層塔は 当初十三重石塔て あったが現在八層である 塔内から金製の 押出仏と 銅製の円形の御正躰が検出され 鎌倉時代前期の造立と思われる 又正和五年 (一三一六)とはっきした 陰刻銘のある 重要美術品石灯籠もある 古老の伝には菅原 道真が吉野宮滝に来遊の途上素性法師 の 案内で当地に立寄,山荘を構之たと言う 破損が激しく 表門 鐘楼本堂を平成七年に 観音堂は昭和六十年陣部分は古材き活し 改築された 平成八年観賞用に供するため境内 に二十種類三百株の牡丹を植栽した 大日堂 保存会 |
貝吹山の図 |
大和中世史は越智党と筒井党の抗争史といわれるほどの越智氏は 名豪族である。 鎌倉時代の終わりに近い正和5年(1316)越智邦永が北条高時に 抗して、謀叛の旗を粉盛山の城館に翻した。 その後、、南北朝時代に入り、邦永の子邦澄は、後醍醐天皇の南朝方 に加担し、元弘3年(1333)護良親王の令旨を受け高取城を築城。 また、貝吹山、玉手、佐田の山々にも支城をつくった。 以来天正11年(1583)8月に越智玄藩頭家秀を最後に滅亡するまで の約200年間、奈良盆地の南端に君臨し、中世文化を育てた。 越智氏によって築造せられた高取城は、寛永17年(1640)植村家政 が2万5千石をもって入部して以来、代々相ついで明治維新に至った。 |
貝吹城址 文治元年(1185)宇野親家、越智を領し、貝吹山に城を築く。子孫、越智氏を称し長 くこの城に依りて、南和に覇を称う。城にことある時は3尺5寸の貝を吹き鳴らし一族 を集め備えを堅めしため、貝吹城と称すると越智古老伝は伝う。天正 11年(1583)、城 主越智玄蕃頭、高取城にて殺害され貝吹城も陥落す。約400年間大和散在党として南 大和に覇を称えし越智氏もついに亡び、今は只石垣のみ残る。標高210メートルの貝 吹山頂にその面影を残す。南大和の諸山城、高取城.佐田城,曾和城などと呼応する位 置にあり、要害というにふさわしい。 (現地説名板より) |
黄檗宗 越智山 光雲寺 本堂 |
南朝の忠臣越智氏の菩提寺。 万福寺の末寺。 南北朝時代初期の貞和2年(1346)に越智邦永(出家して越智伊与入道宗林 と称した)が、自家の菩提所として禅宗の一寺院を建立して、室町初期の文安3年 (1446)大徳寺の義天玄紹が来て復興開基した。以後越智氏の菩提寺として栄 えたが、天正11年(1583)越智氏没落後は浄土宗の寺院として余命を保っていた。 天和年中黄檗宗祖隠元禅師の法孫にあたる京都西山淨往寺の鉄牛和尚の再興す るところとなり、黄檗宗となって興雲寺の「興」の字を「光」に改めた。 |
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〈宗旨》 我国の禅宗には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗派があり、当寺院はその中の黄檗宗で、京都の宇治五ヶ庄にある 大本山萬福寺の末寺である。宗祖は中国から渡来された隠 浄土、己身の弥陀を体得することにあり、又禅教一如の妙 |
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光雲寺の沿革 光雲寺は南北朝時代初期の貞和二年(一三四六)に、出家して越智伊与入道宗林と称した邦澄が、自家の菩提所として 禅宗の一寺院を建立して、興雲寺と称したのが始めである。 その後一世紀をへて、室町初期の文安三年(一四四六)京都大徳寺の義天玄紹が来て復興開基した。以後越智氏の菩 提寺として栄えたが、天正十一年(一五八三)越智氏没落後は浄土宗の寺院として余命を保っていた。天和年中黄宗祖 光雲寺の建築は元禄十一年(一六九八)に天泳和尚に帰依した今井町細井戸多衛門(現橿原市醍醐町平井氏祖)の 志によって、本堂、庫裡が建立され、五代目の覚林和尚は山門と両壁を造立し、ほぼ現今の環境がつくられた。かつ て越智氏によって築造せられた高取城は、寛永十七年(一六四○)植村家政が二万五千石をもって入部して以来、代々 相ついで明治維新に至ったが、支配地の縁故により光雲寺を帰依所とするに至り、高取藩士二十余氏の墓地ともなっ ている。 |
鐘門 | 厄除け杉 |
樹齢千年に近い神木の杉。 岡寺の星祭りには、この杉 の枝を持ち帰り厄払いの行事につかわれている。 |
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当光雲寺は、南朝の忠臣越智氏の菩提寺であり、その創 史を持つ由緒深い名利寺院である。 また、この杉の大木は、光雲寺の幾星霜を見守り、昔から近隣の人々の信仰を集め、 さらにこの杉の木は、根本にあった瑠璃の井戸と共に幾多の伝説を残し、天正年間(天 息子二人が、追手を逃れ杉の木に登り難を逃れた。その時二人の息子が、四十二才と二 この杉の枝を持ち帰り厄払いの行事に使われ今日に至っている。また当光雲寺において |
庭園 |
高取城の瓦 丸に一文字三剣(植村家の家紋) 尚、此の瓦は香芝市関屋在住の当時は |
拝殿 | 寝殿 越智氏氏神 |
有南神社 |
社殿がなく、板石を楯状にめぐらした玉垣中央に神体の榊が植えられている。 |
所在地 奈良県高市郡高取町越智字大西八五 御祭神 天手力男命(あめのたじからお のみこと) 由緒 越智氏居館跡の西に鎮座 旧村社 古来九頭神社と称し、「越智氏系図」に元暦二年(一一八五) 正五位下より従四位下に昇叙(三代実録)。式内社は近世主で 所在不明で(大和志)、「五郡神社記」のみ忌部村(現奈良県橿 原市)の忌部神社(式内天太玉命神社)に併祀と記す。なお「三 代実録」貞観五年二月十四日条に大和国の天津石門別稚姫神 を従五位下より従五位上に昇叙したとあるが、天津石門別神 社との関係は不明。当社には社殿がなく、板石を楯状にめぐ らした玉垣中央に神体の榊が植えられている。里俗に九頭竜 明神と称L、水神とLて祭祀されているが、自然崇拝の古い 信仰形態を残しており、もともと九頭神(国津神・牛頭天王) を祀って いたものが語の類似により九頭竜となり、社名改变 に伴って天岩户を開いた天手力男命を祭祀するに至ったと考 えられる。なお「越智氏系図」には越智親家が冑の八幡座の 九頭銀竜を安置。九頭上大明神といって奉祀Lたとの說話が みえる。 ー寺院神社大辞典よりー |
越智氏の発祥 中世大和武士のうち、もっとも武家として由緒正しく、 その活躍の目ざましかったものは越智氏である。大和中世 史は越智党と筒井党の抗争史といわれるほど越智氏は名豪 族であり、今も村人の間で越智氏のことが語り伝えられて いる。又その先祖については、清和源氏説、あるいは物部 氏などの説がある。 鎌倉時代も終りに近い正和五年(一三一六)越智邦永が 北条高時の暴悪政治に抗して、敢然謀叛の旗を粉盛山の城 館に翻し、寡兵よく再三に亘って六波羅勢と戦っている。 その後、南北朝時代に入り、邦永の子邦澄は、後醍醐天皇 の南朝方に加担し、元弘三年(一三三三)護良親王の令旨 を受け高取城を築城。又、貝吹山、玉手、佐田の山々にも 支城をつくったという。 以来天正十一年(一五八三)八月に越智玄蕃頭家秀を最 後に滅亡するまでの約二百年間、奈良盆地の南端に君臨し、 中世文化を育てた。 敷妙の 袖交へし君 玉垂の 越野過ぎ去く 亦も逢はめやも (万葉集 一九五番) 泊瀬部皇女 (河嶋皇子妃) |
神武天皇社 祭神は神倭伊波札昆古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)て、 初代神天皇の即位した場所であるといわれる。 事保二一年(一七三六年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り と記し、本居宣長も明和年(一七七ニ年)の「菅笠日記」に 「畝傍山の近くに橿原という地名はなく。一里あまり西南にある iことを里人から聞いた」と記している。 言い伝えによると、この地が宮跡に指定されると住民が他亡移住 しなげればならなくなるのて、明治のはじめに証拠書類を全て焼却して 指定を逃れたという。 本殿は流れ造りで、天保四年(一八三三年九月正遷宮の棟札 本社の南にある境内社「嗛間神社(ほほま)」(別名店ホングワラの宮) (アヒラツヒメノミコト)を祀る。伝承によると、神武天皇が (ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后に迎えたため、やむなく この地にに侘び住まいしたと伝えられる。その怒念が夫婦の縁を呪う といわれ、昔から嫁入り行列はこの神社の前を通ってはならないと されていた。 里の北西には 「本馬 山(ほんま)」(標高一四三m があり、 神式が 国見をした「掖上の嗛間の丘」てあると伝えられる。 |