概要と特徴 本尊は弘法大師が印度、中国、日本の三国の土で造られた塑像。 胎内仏の半跏像は国宝、義淵僧正坐像も国宝。 |
急な坂を登ると仁王門(重文)が現れ、 石垣の上に、本堂・三重塔・大師堂・ 書院(重文)などがつづく。 |
岡寺は、飛鳥宮殿の東側の山腹に位置する。 約1300年前、天智天皇の勅願で建立されたとされ、鎌倉期から厄除祈願で信仰を集め、日本最初の厄除け寺としても知られる。 奈良時代は官寺であったがその後、長谷寺の末寺となった。創建当時の建物は存在せず現在の諸堂は江戸期のものである。 光雲寺⇒⇒⇒ |
「東光山真珠院竜蓋寺(りゅうかいじ)は俗に岡寺とよばれる。天智天皇の皇子、草壁皇子が住んだ岡宮跡に、 義渕僧正(ぎえん)によって創建されたと伝えられる。 義渕僧正は、当時の仏教界の最高責任者で社会事業にも貢献した行基や華厳宗を開いた良弁など多くの弟子を持ち、法相宗の 開祖と評価される。 西国観音霊場33ケ所の第七番の札所として広く信仰されている 本尊如意輪観音像はわが国の塑像の中で最も大きく、また、胎内佛といわれる金銅半伽像は白鳳の様式を示し、 桜門・書院等と共に重要文化財に指定されている。旧寺跡は隣接する治田神社境内と推定され、 付近より美しい葡萄唐草紋軒平瓦など白鳳時代の瓦が出土している。」 高市郡明日香村大字岡 |
岡寺の参道沿いの門前町として発達した。 現在、家の前に水路を設けたかっての古い門前町のたたずまいをわずかに残している。 石鳥居をくぐり東の丘陵へ。 |
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岡寺の鐘には、穴が七つあいている。戦争中、鉄砲のどの材料に使えるかどうか調べるために試験片を採った跡。 | ||||
史蹟・岡寺跡 岡寺(龍蓋寺)は義淵(ぎえん)僧正によって建立されたと伝えられる寺院であるが、創建当初の伽藍は仁王門の西方、 ここ治田神社境内地にあったと考えられている。境内地には礎石がいくつか残っており、拝殿の地覆石に凝灰岩の切石が使われている。 また、古瓦の散布もみられることから、このあたりに古代の建物があったことは間違いない。 昭和57年には橿原考古学研究所によって発掘調査が行われており、基壇建物の北側を画したと思われる凝灰岩の切石が4.5mほど並び、 その東端に階段があったらしいこともわかっている。その他の建物や伽藍配置については不明であるが、 岡寺所蔵の寛文年間(1661〜1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡他が描かれている。 発掘調査で見つかった建物は、南向きに建つ7間×4間の金堂と推定される。 続き⇒⇒⇒ |
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草壁皇子の没後、その住まいの岡宮を義淵(ぎえん)僧正が賜り、寺として伝えた。 義淵は、飛鳥時代の終わりから奈良時代にかけて活躍した僧で、大宝三年(703)に僧正に任じられた法相宗の僧である。 玄坊・行基・良弁・道慈・道鏡らは弟子といわれる。 |
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岡寺(真言宗)は、正しくは東光山真珠院龍蓋寺(りゅうがいじ)といい、西国三十三ヵ所第七番札所。 鎌倉時代から観音信仰に厄除け信仰が加わり、厄除けの寺として知られる。二月初午(はつうま)は多 くの参詣者でにぎわう。 本堂前で杉葉で体をさすり厄除けとした。昔、あばれ龍を閉じ込めたという龍蓋池が境内にある。 天平時代の作、本尊の如意輪観音(重文)は高さ4.5mの日本一大きい塑像(土で造られた仏像)。 両脇を不動明王と愛染明王が固める。 また、木心乾漆(もくしん)義淵僧正坐像(国宝)は奈良時代の作である。 |
治田神社(はるた) | |
祭神 |
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行事 元旦祭 一月 早苗饗(さなぶり) 六月 豊穣講 九月 秋祭 十月 新穀祭 十二月 旧社格 式内小社 、村社 流造 |
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由緒沿革 当社の創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜神名帳の式内とされているので、 平安時代(十世紀)には社があったとされているので、平安時代当境内からは、 凝灰岩の基壇や礎石、瓦が出土することから、八世紀初頭の岡寺(龍蓋寺=りゅうがいじ) 創建伽藍があったと推測されており、寺の鎮守神として、境内地に祀られていた可能性があると も考えられる。 元々は治田氏の祖神が奉祀されていた。 文安年間(1444〜1448)に一時大国主命の和魂(にきたま)である大物主命を奉祀されたことが 古書にある。 さらに社名を八幡宮と称して応神天皇を奉祀し今日に至っている。 八幡宮とも呼ばれる。明治43年(1910)には大字岡字城山に鎮座していた八坂神社が併合 されている。 |
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境内の西方の治田(はるた)神社付近に礎石があり、白鳳時代の古瓦が出土する。 |
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