国見山から西側(御所市方面)望む |
東方の国を治めるべく東征の途についたのが、初代神武天皇の一行である。 難波から大和に入ろうとしたが抵抗強く、海路苦難の末、熊野の地に上陸、抵抗する者 を排し、ようやくこの地を安住の地と決められた。 神武天皇は、夏四月、腋の上(わきのほとり)の嗛間丘(ほほまのおか)に登って国見 され「なんと良い国を得たものだ、内木綿(うちゆう)の狭い国だが、蜻蛉(とんぼ)の 臀呫(となめ・交尾)のようだ」と言われ、以後この地を秋津州(あきつしま)と呼ばれた。 のちにこの丘を国見山と言われるようになった。 往時、社殿は山頂にあり秋津村富田区の人も氏子であったが、いつの時代か丘の 東麓のこの場所に移され、 今では原谷・今住・上方地区の氏子の産土(うぶすな・人の生まれた土地)の神として 奉仕、信仰されている。 御所市に「本馬の丘」があり、「嗛間丘」と伝承する。「ホホマ」が「「ホンマ」になまったの だという。 秋津:とんぼ 秋津洲・秋津島・蜻蛉洲:大和の国の異称、また広く日本国の異称。 |
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圀見(国見)神社の沿革 日本神話によると,天照大神の命により、天孫降臨の神話の主役をなす天孫瓊 瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原から高千穂の峰に到達し、九州日向国を定住の 地とし宮殿を建て事業を推し進めた 事業継承三代の時「東方に,青山をめぐらした美しい国(大和)があり、この国こ そ天業をおしすすめるのに最適の地であり、必ずやまつりごと(政)の中心となるだ ろう」と決意して東方の国を治めるべく東征の途についたのが、神日本磐余彦尊(カ ンヤマトイワレヒコノミコト)初代「神武天皇」の一行である。 難波(ナニワ)から大和に入ろうとしたが抵抗強く,海路苦難の末,熊野の地に上陸 抵抗する土賊を排し、ようやくこの地を安住の地と決められた 日本書紀によれば,神武天皇は、夏四月,腋の上(ワキノホトリ)嗛問丘(ホホ マノオカ)に登って国見され「なんとよい国を得たものだ.内木綿(ウチュウ)の狭 い国だが、蜻蛉(トンボ)の臀呫(トナメ)(交尾)のようだ」と言われ、以後この地 を秋津州(アキヅシマ)と呼ぶと記載されている。のちにこの丘を国見山といわれる ようになった。 往時,社殿は山頂にあり秋津村冨田区の人も氏子であったが、いつの時代か 東麓のこの場所に移され、今では原谷,今住,上方地区の氏子の産土(ウブスナ)の 神として奉仕,信仰されている。古来、神殿の改築に近隣の藩公からの寄進があった との記録が残されている。また,国見神社記録では、往古より疝気(腰痛)の神と仰 ぎ栗を供え奉って病気全癒を祈ったこと。その御神徳あらたかなるため、遠近より 参拝祈願する者多しと記されている。一方、年代を確認できるものとしては鰐口(ワ ニクチ)に明和5年(一七六八)9月の刻銘(盗難にあい不明,現在は大鈴を代用し ている)また、棟礼に改築年 天保7年(一八三六)とある。 当神社は,瓊瓊杵尊を主祭神として、天児屋根命、田心比売命の二神も御祀りしている ◆瓊瓊杵尊(主祭神)(ニニギノミコト) 天津日子番能瓊瓊杵尊 天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト) 「総じて稲穂が豊かに実る国の壮健なる男子」と言うのが命名の由来とされる 神武天皇の曾祖父にあたる。 霧島神宮の主祭神 ◆天児屋根命(アメノコヤネノミコト) 天照大神の侍臣として仕えた.降臨五人の内の一人。後世の中臣氏(藤原氏)祖神 春日大社の主祭 田心比売命(タゴリヒメノミコト) またの名を奥津島比売命と言い 地丸山垣内の厳島神社(弁天さん)に祀られている 市杵島比売命の姉にあたり美人の誉れ高い宗像山三神の一人 |
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神武天皇が感嘆したという蜻蛉がつがった形とは、写真でみる左金剛山・右葛城山の姿 を見て連想したとする説がある。水越峠あたりが低くなり、二匹の蜻蛉の尾尻が重なり合う ように見えなくもない。 |
古代の湿地環境にはおそらく多種多様なトンボが生息し 交接行動のさいに観察される“となめ"(雄と雌が連なっ た交接の状態)もあちこちで見ることができるような湿地 |
標高143m大和平野を見渡 せる高さにある。 |
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嗛間丘(ほほまのおか)、 神武天皇聖蹟伝説地の碑 |
腋の上(ワキノホトリ)嗛問丘(ホホマノオカ) |
讃め言葉 | 倭建の国見 |
舒明天皇の誉め言葉 (天香具山) |
三輪山磐座 |
仁徳天皇 | 推古朝から舒明朝 |
仁徳天皇 | 難波京関連 |
国見山 | 万葉賛歌 |
柿生本人麻呂 | 吉野宮の謎 |
神武天皇社 | 高津宮 |