般若寺地図
楼門(国宝・鎌倉時代) |
鎌倉再興伽藍。和様に天竺様式を取り入れ、美しく 軽快な屋根のそりを見せる。(折衷様の初期の例に挙げられる。) 楼門遺構では日本最古の作例。 建築様式折衷様⇒⇒⇒ |
「味酒 三輪の山 あおによし 奈良の山 山の際に
い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の隠さふべしや」と額田王が詠ったいにしえの奈良 山を越えるところ、奈良坂の古道にそって立つ般若寺 は,飛鳥時代高句麗僧慧灌(えかん)法師によって開かれた。 都が奈良に遷って天平七年(七三五)、聖武天皇が 平城京の鬼門を守るため『大般若経』を基壇に納め 塔を建てられたのが寺名の起こり。そして平安の頃は 学問寺として千人の学僧をあつめ栄えたが治承四年 (一一八0)平家の南都攻めにあい伽藍は灰燼に帰した。鎌倉時代に入って廃墟のなかから、十三重石宝塔を はじめ七堂伽藍の再建が行われ寺観は旧に復した。 なかでも金堂本尊には西大寺叡尊上人により丈六の 文殊菩薩がまつられ信仰の中心となった。 上人は菩薩の教えである利他(りた・自己を高め他のため にはたらく)の行を実践し、弟子の忍性たちと病者や 貧者の救済に力をつくされた。その尊い慈善活動は福 祉の先駆として歴史に名高い。 般若寺はその後、室町戦国の兵火丶江戸の復興、明 治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律宗の法 灯をかかげ今にいたっている。 また当寺は『平家物語』や『太平記』『宮本武蔵』な ど文学の舞台としても知られ、古都の風情をよく残し ている。 |
本堂 江戸時代 |
寛文7年(1667)高任・高栄が勧進して戦国 の兵火で焼けた金堂の跡地に再建。 |
石燈籠 (鎌倉時代 花崗岩製 総高3.14) |
笠塔婆二基重要文化財 (花崗岩製南塔総高4.46m北塔総高4.76m) |
鐘楼(江戸時代 |
石燈籠
古来「般若寺型」あるいは「文殊型」と呼ばれる著名な石灯籠。竿と笠部分は後補であるが、基台、 中台、火袋、宝珠部は当初のもので、豊かな装飾性を持つ。火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草を浮彫り する。 |
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笠塔婆
笠塔婆形式の石塔では日本最古の作例。また刻まれた梵字漢字は鎌倉時代独特な雄渾な「薬研彫り」の代表例とされる。 当初は寺の南方にあった般若野五三昧(南都の総墓)の入口、京街道に面して建っていたが、明治初年の廃仏毀釈に遭い破壊 刻銘 南塔【正面】パク(釈迦)アン(普賢)マン(文殊)アーク・ア・アー・アン・アク(胎蔵五仏の種字) 【右側面】 一切不生懈台心 十方大菩薩 衆故行堂 【左側面】 諸行無情 是生滅法 生滅滅 寂滅為楽 【裏面】 ア(大日如来) (光明真言種字二行) 北塔【正面】キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)パン・ウン・タラーク・キリーク・アク(金剛界五仏種学) 【右側面】當来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 常得無量楽 【左側面】孝養父母心 功徳最大ー 是心発起者 成就自然智 【裏面】 ア(大日如来種字) (大随求陀羅尼小呪種字) |
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鐘楼
元禄7年(1694)建立。梵鐘は江戸時代初期のものとみられるが、伝えでは西大寺の奥の院から来たという。 室町時代の延徳3年(1491)に宥典、智鏡が勧進して作った鐘が興福寺へ移されたとの記録がある。 元禄の工事のとき、地中に石室があり、その中から鎌倉時代に忍性菩薩が埋納した「如意宝珠」(諸の願い を叶える不思議な珠、摩尼ともいう)が見つかったという。現在、宝珠は失われているが納入箱が現存する 昭和52年(1977)修理される。 般若寺の釣鐘ほそし秋の風 正岡子規 |
夕日地蔵尊 | 金屋の石仏 | 忍性生誕地 |
十三重石寳塔(重要文化財) (花崗岩製 総高14.2メートル |
水かけ地蔵尊と手水石船(江戸時代 「地蔵尊」 砂岩製 |
鎮守社(桃山時代) |
十三重石寳塔
奈良時代、平城京のため聖武天皇が大般若経を地底に収め塔を建てたと伝えるが、現存の塔は東大寺の鎌倉復 興に渡来した宋人の石大工伊行末(いぎょうまつ)が、建長五年(1253)頃に建立した。 発願者は「大善功の人」としか判明しないが、完成させたのは観良房良慧(かんりょうぼうりょうけい)で、続いて伽 藍を再建し、般若寺再興の願主上人と称された。以後数度の大地震や兵火、廃仏毀釈の嵐に見舞われるも、昭和39年 (1964)大修理を施し現在に至る初重軸には東面薬師、西面に阿弥陀、南面に釈迦、北面に弥勒の四方仏を刻む。 |
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水かけ地蔵尊と手水石船
十数年前、東の山中から発見された。銘によると奈良町の北袋町住人の綿屋某が宝暦4年(1754)先祖供養のために造立した。 「手水石船」 花崗岩製寛文7年(1667)に再興された現本堂(文殊堂)に寄進された。 (刻銘) 奉寄進般若寺文殊堂御賓前延賓 年八月吉日敬白(1673~1680) |
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鎮守社 伊勢、春日、八幡の三社を合祀する。この三明神は真言律宗では「伊勢神道」「三輪神道」に基づき 伊勢は金胎両部の大日如来の垂迹神、春日は法相の垂迹神、そして八幡は仏法の守護神であり、仏菩薩 と同体とみなして篤く信仰を勧めてきました。 明治の「神仏分離令」により不幸にも鎮守社が切り離された寺が多い中にあって、当山では幸いにも寺 に残りました。 |
踏み蓮華石 (鎌倉時代 花崗岩製) | |
鎌倉時代、文永4年(1267)
西大寺叡尊上人によって造顕された
丈六仏の文殊菩薩騎獅像の数少ない遺品で、塑像の獅子が踏んでた蓮華石。 直径1m程度の木芯の足が想定される。 |
文殊菩薩(重文・鎌倉時代) | 阿弥陀如来(秘仏・重文・白鳳時代) |
文殊菩薩 般若経を説いた智恵の菩薩。後醍醐天皇の御願仏として 願主文観上人、仏師康俊・康成、施主藤原(伊賀)兼光ら によって造顕される。もと経蔵の秘仏本尊であったが現本 堂再建と同時に御開扉された。 |
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阿弥陀如来
聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため奉納。昭和の大修理の際、 めていた。 |
高取城 | 高取山展望台 | 越智氏 |
下ッ道 | 悲劇の皇子たち | 大日寺 |
金峰山寺 |
南朝御聖蹟顕彰
大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう) 六歳にして天台宗梶井門跡(京都東山岡崎)にて出家され、尊雲法親王と称される。 大塔の名の由来は東山岡崎の法勝寺九重大塔のほとりに門室を構えられたことによ る。十七歳で三千院門主、十九歳で天台座主となられる。 『太平記』には武芸を好む異例の座主であったという。 元弘元年(一三三一)八月、討幕計画が洩れる「元弘の変」が起こり、後醍醐天皇 が笠置山に遷座籠城されると、宮は尊澄法親王(宗良親王)とともに参戦される。 幕府の大軍に攻められ笠置落城後、般若寺に潜伏される。 幕府方の追手按察使候人妤専(あぜちこうにんこうせん)が五百の兵を率いて探索 に来たとき、堂内にあった大般若経の唐櫃(からひつ)に潜み危難を遁れられた。 尋常小学読本の「般若寺の御危難」、唱歌「大塔宮」でよく知られる話である。 その後熊野へ落ちのびられ、後醍醐天皇が隠岐島へ流された後も、天皇に代り各地の 武家や寺家に令旨(りょうじ)を発して、楠木正成や赤松円心などの討摯兵を呼び かけられ、自らも吉野山で兵を挙げ各地を転戦される。吉野山では村上義光(よして る)が親王の身代わりになり壮絶な死を遂げた話が有名。 二年後、足利尊氏らと幕府の出先政庁である京都六波羅探題を滅ぼし、新田義貞の 鎌倉攻めとも呼応して討幕に成功される。「建武の中興」。 後醍醐天皇の建武の新政では征夷大将軍となられるも、足利尊氏と対立し、ついに 囚われの身となり、鎌倉へ送られ二階堂谷東光寺の土牢に幽閉される。 そして北条氏復活を企てた「中先代の乱」の際、足利直義の命で殺害されたという。 建武二年(一三三五)七月二十三日薨去。享年二十八歳の御生涯であった。 (生き延びられたという伝説も残っている) 親王の御霊をまつる鎌倉宮(明治二年造営)には、東光寺の土牢が復元され、親王 に関する資料が公開されている。そこには「般若寺の唐櫃」の複製が展示され、唐櫃 から立ちあがられた親王の御姿の絵も掲げられている。最近、ケイタイ小説『キミノ 名ヲ』が出版され、護良親王の御名がよく知られるようになった。(漫画本もある) 〇般若寺には大塔宮護良親王をしのぶ歌碑と句碑があります。 「般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を のがれわびけむ皇子しおもほゆ」 森鷗外 |
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第三十二般若寺の御危難 笠置の城すでに北條四兵に攻破られ後醍醐天皇は御いたましくも賊軍の手に落 笠置なる父帝の御もとへと志して、比叡山を立出で給ひし護良親王は今や天下 かくと聞知りたる北條町僧好專或日の夜明方に、五百餘騎の兵を率ゐて、不意に 折から御供の人々一人も居合はせざれば親王、防ぎ防ぎて落ちのび給ふ暇もなし。 賊兵は早すき間もなく寺内に亂れ入りぬ。 親王今はのがれぬ所と思し召し,自害せんと御肌をぬがせられしが、いやいや、 其の時、賊兵ばらばらと佛殿に亂れズ,佛壇の卞、天井の上、残る所なく尋ぬれど 親王は思ひもよらず危き命を助かり給ひ、ただ夢の心地しておはしまししが賊若し 案の如く、賊兵また取って返し、「先に蓋の明きたる箱を見殘したるが、心がかり」 親王は萬死に一生を得て神佛の加護を謝レ給ひ、熊野をさして落行き給ひきとぞ。 |
後醍醐天皇を偲ぶ歌など
「指て行 笠ぎの山を 出でしより 雨が下には 隱家もなし」 後醍醐天皇(『太平記』巻三「笠置城没落の事」)
「いかにせん 憑影とて 立ち寄れば 猶袖ぬらす 松の下露」 万里小路藤房(『太平記』巻三「笠置城没落の事」) 「玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の 天に臨まんと思ふなり。もし勅を背き義を軽んぜば、君も継 体の君にてあるべからず、臣も忠烈の臣にてあるべからず。」 後醍醐天皇御遺詔(『太平記』巻第二十一「御醍醐天皇崩御の事」) 「葉ざくら雨 やみ間をぐらく 静かなり 塔の尾陵の 石段を上る」 木下利玄(歌集『 一路』「葉桜雨」) 「すめろぎの こころかなしも ここにして みはるかすべき のべもあらなくに」 会津八一(『鹿鳴集』「南京余唱.吉野塔尾御陵にて」) |
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