6 磯城島の 日本の国に

歌 作者不詳
 巻13−3249
筆 山口誓子

地図
式嶋乃
山跡乃土丹
人二人
有年念者
難可将嗟
しきしまの
やまとのくにに
ひとふたり
ありとしおもはば
なにかなげかむ
磯城島の
日本の国に
人二人
ありとし思はば
何か嘆かむ
しき島の日本の国に、我が思う人が二人あると思ったならば、どう
してこんなに歎きましょう。
私の恋しい人はたった一人しかいないものだから、あれやこれやと、
気を遣うことばかり多いのです。
磯城島:磯城島に天皇の宮居のある大和という意味で「やまと」
     にかかる枕詞。
敷城島⇒⇒⇒
 志貴御県坐神社の鳥居をくぐる石段の上、
古びた小さな拝殿の左側に歌碑がある。 

   
志貴御県坐神社
祭神  大己貴神 御縣の神
延喜式神名帳 神大 月次新嘗
 
  境内左端(西側)に崇神天皇磯城瑞籬宮址
の石碑がひっそりと立っている。
   
 
 
 磯城瑞籬宮(しきみずがき)は、第十代崇神天皇が営んだ宮と
されています。
 記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような
疫病が発生しました。これは三輪山の神、大物主大神(オオモノ
ヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従
い神の子孫となる大田田根子命(オオタタネコ)を探しだしました。
そして彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ祟りが
鎮まり疫病がおさまったとされています。
 また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の
安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇と
してたたえられたと記されています。

記紀万葉の物語(崇神天皇の条)
三輪山の神、大物主神
三輪山神婚伝承(おだまき伝承)
三輪山の神をお祀りした話
元伊勢伝承
箸墓伝承
四道将軍の派遣
活日の御酒献上 

 鳥居右側の説明文に、「磯城瑞籬宮跡」として、第10代崇神天皇の皇居跡と伝えられています。
神山三輪山を背後に負い、歌垣の伝えで名高い海石榴市を脚下に控えて、大和平野を見渡す高燥の地です。」
 この地一帯は、初瀬川と纏向川が交わるデルタ地になり、更に山の辺の道が通る水陸交通の要衝。
また、古代の物流拠点である大市・海柘榴市(つばいち)もあり、政権経営に最適の宮地であったのだろうという。
 祟神天皇磯城瑞籬宮、垂仁天皇纏向珠城宮景行天皇纏向日代宮、など3〜4世紀の皇居の所在地三輪山のほとりであり、
古代の我が国は磯城の地を中心として広まった。
祟神天皇陵 垂仁天皇陵 景行天皇陵 志貴御縣坐神社 和田萃 
おだまきの杉  王権を確立した崇神天皇  天皇の宮  鏡作坐天照御魂神社 
 志貴御県坐神社(しきのみあがたにいますじんじゃ)大和の六御縣社(むつのみあがた)の一つである。
 磯城・山辺・曽富・葛城・高市・十市の「縣」という大和朝廷直轄地があって律令期の国郡制から戦後の町村合併で郡域が変更されるまで
地域を考える一つの単位となっていた。
 六御縣の名称が冠されているのは、それぞれの縣主出身の女性が乳母として奉仕したことにより、皇子女の名とされたと推定されている。
中大兄皇子も、幼名は葛城皇子であった。
 御縣とは、天皇の御饌(みけ・・・食事)に供える御料菜園地。その神を祀る神社。





































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