纏向日代宮(まきむくひしろのみや)地図

 山の辺の道 散策ガイド 飛鳥 散策ガイド 
景行天皇纏向日代宮跡の碑
 山の辺の道から東へ少し上がったところ、相撲神社穴師坐兵主神社に向かう
道にあり、大和平野・景行天皇陵を見下ろすところにある。
 紀元730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(オオタラシヒコヲシロワケ)
が即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。
その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との
間に生まれた日本武尊である。
景行天皇の業績で注目すべきことは、日本の国の真の歴史並びに天成(アマナリ)
の道(宗教・政治の理念)を子々孫々に遺すべしとの日本武尊の遺言に従い、
五・七調の神代文字で記された秀真伝(ホツマツタエ)文献を、三輪君の祖となる
大直根子(オオタタネコ)に命じて編纂させ、後世に遺したことである。
   
 纒向遺跡は、初期ヤマト王権発祥の地として、あるいは邪馬台国(3世紀ごろ)の東の候補地として全国的

にも著名な遺跡であり、遺跡の範囲は古代からの信仰の山、三輪山を背にして、このあたりの山麗から西方

を望む地域一帯に広がっています。

この遺跡は、広大な面積を有することや、九州から関東にいたるまでのさまざまな地域の土器が全体の15

%前後も出土していること箸墓古墳を代表として向石塚古墳ホケノ山古墳など6墓の発生期の前方後

円墳が集中して築かれていること、農耕具がほとんど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多いことなど他

の一般的な集落とは異なる特徴を多くもっています。

また、附近には、景行天皇の纒向日代宮跡や垂仁天纒向珠城宮跡の伝承地もあり、このことから纒向

遺跡は、わが国最初の『都市』、あるいは初期ヤマト政権の『都宮』とも目されています。

纒向遺跡が栄えていたころの古代の都市を再現し、イメージ図にしてみました。
現在の風景を眺めながら
当時の様子を思い浮かべていただいてはいかがでしょうか。 

向日代宮伝承地

 纏向日代宮は、第十二代景行天皇が営んだ宮です。

記紀によりますと景行天皇の時、皇子の小碓尊(オウスノミコト)別名、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が活躍した

とされています。

倭建命は、天皇の命を受けて大和に従わない九州の熊襲(クマソ)や出雲の国へ、
一度帰朝してまた東の国々へと遠征

を重ね、次々に服従させていったという古代の英雄です。

「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し」※

は、命が遠征の帰途、病を得て亡くなる時にふるさと大和への思いを詠まれた歌の一節とされています。

※日本言?には,景行天皇が九州の日向の国で詠まれた歌とされています。

相撲神社 と穴師神社      












元号

 
 大亦観風「万葉集画撰」より
第二十九図 太宰府梅花宴の歌
時に初春の令月(よきつき)にして、
気淑(きよく)風和ぎて、梅は鏡前の
粉(よそほ)ひを披(ひら)き、蘭は珮後
(はいご)の香りを薫(かを)しぬ
令和と梅花の宴  文選  蘭亭序 はじめての 万葉集  
万葉賛歌  大津市坂本 比叡山  地震   
新しい年号  うめ
令和について   
 日本初の元号が大化(645)である。続いて白雉となり、その後空白期間を経て、朱鳥から
平成に至るまで247個の元号が1300年以上にわたって途切れずに続いている。
元号は、現在では日本にしか存在していない。中国で、紀元前2世紀に作られた建元が世界初
の元号とされているが、今は使われていない。
 一世一元(一人の天皇の在位期間と一つの元号を一致させる)は慶應から明治への改元に
際して決められた。  
元号名 始期  終期   天皇
大化  645  650  孝徳天皇  
白雉  650  654 
朱鳥 686  686  天武天皇 
大宝  701  704  文武天皇 
 ※大化元年(645)を始めとし、大宝元年(701)以降、現在まで続く。
 ※朱鳥について、『日本書紀』には天武天皇の病気平癒のため改元され、一年限りの年号
   だったことが記されているが、『万葉集』では持統天皇の御代を「朱鳥」で記している。
   『万葉集』に「朱鳥」は5回出る。
 

 国号は日本。君主号は天皇。自前の法律として律令を定める。元号もこうした「国のかたち」
を整えるための制度の一つだ。保立道久・東京大名誉教授(日本中世史)は「暦とあわせて国家
が役人の時間を管理し、個人々の時間を支配する中国のやり方を導入した」と説明する。

 保立氏によると、奈良時代の改元は天皇の代替わりに伴う代始改元(だいはじめ)や善政を
賛美する祥瑞改
元(しょうずい)。これに対し、923年に原道真の怨霊で皇太子が死去したとし
て初の災異改元(さいい)があっ
た。8〜10世紀には地震や噴火などの大災害が続き、怨霊が
因とされた。「以降幕末までの改元約200回のうち100回発ほどが災展改元で、その相当数
は地震に関連がある。地震火山
列島らしい改元かもしれない」

 近代化を目指す明治政府は、太陽暦とともに「一世一元の制」を選んだ。天皇は終身在位、
元号は一代に一つとなり、
特に明治や昭和は国民国家の一体感を醸成した。 小島毅・東京
大教授(中国思想史)は「中国の明王朝が採用した一世一元を江戸時代の儒学者が取り入れる

べきだと主張し、明治政府の方針に影響を与えた」とみる。

 元号は東アジアの漢字文化圏に特有の制度。小島氏は「朝鮮半島などの周辺諸国には、経
的な実利を求めて中国の元号を用い、独自の元号を持たない例もあった」と指摘する。元号
近現代に至る日本の国づくりに中国が一定の影響を与え続けてきたしるしだが、相応の距離
とってきた証しでもある。

 日本の正式な元号は数え方にもよるが247ある。645年の大化を筆頭に701年の大宝以降
は途切れず続く。所功・
京都産業大名誉教授(日本法制史)は「日本の元号は世界唯一。超国
宝級の無形文化財」と
説く。平成改元の翌年、美智子皇后は「ともどもに平らけき代(よ)を築か
むと諸人のことば国うち
に充(み)つ」と詠んだ。
「新生児に
いい名前を考えるように、元号にも時代の理想や希望が託される。しかも表意文字
で分かりや
すく伝わる」と利点を挙げる。

 日本の元号に使われた漢字は72文字と多くない。所氏は「国民に幅広く理解され実際に使わ

れることが大事」と新元号の発表に期待し、「今後は有識者が出典を示した有力案を政府が公

開し、国民の幅広い意向を反映させることも検討してはしい」
 平成は約30年で終わる。
田龍一・日本女子大教授(日本近現代史)は改元を「過去を振り
返るきっかけ」と
肯定的にみる一方で「『平成史』と呼べば、どうしても国内の出来事に目が向
く。現代史上
の非常に大きな転換点である東西冷戦終結を軽視する傾向はないか」と懸念す
る。

 保立氏は「天皇への文化的親愛が背景にあるとは思うが、国民に元号使用を強制するのは
はりまずい。 今後は元号と西暦の自由な併用の中で議論すべきだ」とし、新たな時間基準
も提
案する。「西暦のように一列の数字で示す紀年法は必要。自然科学には既に1950年を基
とする放射年代測定法のような地球暦がある。一歩進めて『核紀元』で数えると今年は『核
代後74年』」。地質学の世界では「人新世」という新たな時代に入ったとの意見もある。西暦

と並ぶイスラム暦、仏暦もあり、幅広い視野で議論したい。
  2019−3−11(平成31年)  朝日新聞
  (大内悟史)


日本以外は

 中国  前漢・武帝の「建元(紀元前140)」以降、紀元前2世紀〜20世紀前半の各王朝

と周辺諸国が用いた


 朝鮮半島  高句麗や新羅、渤海に例。高麗や朝鮮王朝は主に中国の
元号を使い、日本支配で途絶


 ベトナム  10世紀から1945年まで独自の元号。植民地時代を経て戦後
の王
政廃止で途絶

近年の日本年号、元号の出典

令和 『萬葉集』「于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭樅瘡續V香」

 参考『文選』「於是仲春令月 時和氣清 原隰鬱茂 百草滋榮」

平成『書経』 「地平天成」

   『史記』 「内平外成」

昭和『書経』 「百姓昭明  協和萬邦」☆明和

大正『易経』 「大亨以正天之道也」

明治『易経』 「聖南面而聽天下 響明而治」

   『孔子家語』「長聰明 治五氣」

慶應『文選』 「慶雲應輝」

元治『周易』 「乾元用九、天下治也」





















































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