第19代 允恭天皇(いんぎょう)地図
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父…仁徳天皇(第四皇子)
陵墓…恵我長野北陵(えがのながのきたのみささぎ) |
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松山市姫原にあり、主祭神として軽 太子(木梨之軽太子)と軽皇女(軽大郎 女)を祭る。かつては斯多那岐宮と も、姫原社とも呼ばれたという。 社伝によれば、允恭天皇の皇女、軽 太郎比売(軽大郎女)が斯多那岐宮に 居て、その地で亡くなったのを森に葬 って古塚と称した。その墓所という石 塔が現存し、かたわらに木梨之軽太子 の墓が並び、比翼塚と呼ばれる。地名 を姫原、背後の山を「軽の山」という。 のも、軽皇女の名にちなむとされる。 一方、宮内庁が木梨之軽太子の陵墓参 考地とする東宮山古墳は愛媛県四国中 央市にある。 |
神社主祭神 軽皇女(かるのひめみこ) 神社由緒 社記によれば昔、允恭天皇皇女軽太郎比売が斯多那岐宮に在り、その地に薨じたのを後の森 河野、久枝、野田、野畠、光宗、森等の諸氏の尊崇厚く、再々神殿を改築したと伝えられている。 神社鎮座地 紀元435年のこと、允恭天皇の皇太子木梨軽太子(きなしかるのみこ)は、実妹·軽大郎女(かるの その名も「姫原」というこの地には、いつの頃からか、二人を祀った「軽之神社」があり、神社より 比翼塚の隣には、木梨軽太子の「天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の間えむ時は我が名問はさねし」 なお、「山釿」とは、植物のニワトコのことで、「山釿の」は「迎へ」の詞となっている。 |
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