第19代 允恭天皇(いんぎょう)地図

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仁徳天皇(第四皇子)
磐之姫尊 
誕生━━
御名・異称…雄朝津間稚子宿禰(おあさずまわくごのすくね)
皇夫人命(おしさかのおおなかつひめ)
立太子━━
即位…412年(允恭天皇元年)12  在位年数…41
崩御…453年(允恭天皇42年)1.14  年令…━━
皇居
宮(とおあすか)  年号━━
反正天皇は皇嗣を定めないまま崩御、日本書紀によると有力な人々が集まり、雄朝津間稚子皇子を推し、「吉(よ)き日を選んで天皇の璽(みしるし)を上たてまつる」とある。その前文に年長者で人々には優しく、先祖を大事にする御人であるので病弱にもかかわらず、皇后・群臣の推挙によって即位されたと述べている。
氏姓を誤り上下の争いが絶えず治世安らかでないことを憂い、天皇は詔して、氏姓を正すことにした。甘橿丘に盟神探湯(熱湯の中の泥を探らせ、正しい者はなんともなく、偽れる者は皆やけどをする)を据えて、人々を招き真偽が試されたことになった。真実を述べた者は無事であったが偽りを語った者はことごとく熱傷を負った。これにより天下の氏姓はおのずと定まった。
○「宋書倭国伝」の倭の五王のうち、「済」にあてられている。
○この時代、木梨軽皇子と軽大娘皇女との悲恋物語がある。二人は同母兄妹であったので当然その関係は禁忌とされたが、両者は強く惹かれあった。天皇の御膳に異変が生じたため、占ったところ、身内に通じ合っている者があるとお告げがあった。調べて行くと、二人の関係が露顕した。「古事記」では皇子が捕らわれ伊予国に流され皇女も後を追ったことになっているが、「日本書紀」では、皇子は太子であり世継ぎであったから処刑を免れ、軽大娘皇女が伊予国に流されたことになっている。

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陵墓…恵長野陵(えがのながのきたのみささぎ)
所在地…大阪府藤井寺市国府1丁目
御陵は中位段丘に立地し、市ノ山と称される。北向きの巨大前方後円墳で三段築成であり、全長218mの規模で一部二重濠、前方部幅と後円部径の規模が157m前後で同規模である。陪墳も数基ある。「河内志」は仲ツ山古墳をあてている。規模では大王墓にふさわしい。
陪墳を多く有する御陵であるが、長持山古墳はその一つである。古式家型石棺が竪穴敷石室に安置され、小口部に突起がついている。
1946年(昭和21年)に調査され、衝角付冑・桂甲・金銅製鞍金具・木芯鉄板張輪鐙・轡(くつわ)・杏葉・鉄刀・鉄鏃(ひじり)・鉄鍬(すき)・短甲・帯金具等副葬品で豊富に知られている。六朝の神人画鏡もある。


    允 恭 天 皇
皇后  忍坂大中姫  おしさかのおほなかつ
ひめ
衣通郎姫は妹。
皇后の妹 衣通郎姫  そとほしのいらつひめ  衣を通して美しい膚の色がすけて光はえているところから
つけた名,またの名は、弟姫。
允恭天皇の愛人。
軽皇子、軽大郎は甥・姪。
第一皇子  木梨軽皇子  きなしのかるのみこ  軽大郎皇女とは同母妹で恋愛関係にあった。
衣通郎姫は叔母。
 皇女 軽大郎皇女 かるのおほいらつめの
ひめみこ 
またの名を衣通郎女、叔母の衣通郎姫と似か
よった名であるが別人と見なしたほうが自然。叔母と同じく
美しかった。
木梨軽皇子とは同母兄で恋愛関係にあった。


軽之神社・軽太子の塚地図

 松山市姫原にあり、主祭神として軽

太子(木梨之軽太子)と軽皇女(軽大郎

女)を祭る。かつては斯多那岐宮と

も、姫原社とも呼ばれたという。

 社伝によれば、允恭天皇の皇女、軽

太郎比売(軽大郎女)が斯多那岐宮に

居て、その地で亡くなったのを森に葬

って古塚と称した。その墓所という石

塔が現存し、かたわらに木梨之軽太子

の墓が並び、比翼塚と呼ばれる。地名

を姫原、背後の山を「軽の山」という。

のも、軽皇女の名にちなむとされる。

一方、宮内庁が木梨之軽太子の陵墓参

考地とする東宮山古墳は愛媛県四国中

央市にある。

神社主祭神
 軽太子(かるのみこのみこと)

 軽皇女(かるのひめみこ)

神社由緒
 往昔、斯多那岐宮ともいい姫原社とも称えたという。地名の姫原、背後の山を軽の山というのも
軽皇女の御名によるという。

 社記によれば昔、允恭天皇皇女軽太郎比売が斯多那岐宮に在り、その地に薨じたのを後の森
に葬り古塚と称した。姫墓所の三字を刻んだ石塔は現存し、その傍らに木梨軽太郎の墓を並べ、
霊社を吉原郷山田に建てて当社へ御分霊を合祀したという。

 河野、久枝、野田、野畠、光宗、森等の諸氏の尊崇厚く、再々神殿を改築したと伝えられている。

神社鎮座地
 松山市姫原町字奥の谷74番地

 

 紀元435年のこと、允恭天皇の皇太子木梨軽太子(きなしかるのみこ)は、実妹·軽大郎女(かるの
おおいらつめ)と許されない恋におち、太子は伊予の湯に流された。姫は恋しくてたまらず追いかけ
て来たが、 二人はついに、この地で亡くなられた。『古事記』に残る有名な悲恋の物語である。

 その名も「姫原」というこの地には、いつの頃からか、二人を祀った「軽之神社」があり、神社より
奥の山裾に二人の塚と言われる比翼塚がある。

 比翼塚の隣には、木梨軽太子の「天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の間えむ時は我が名問はさねし
(空を飛ぶ鳥は使いだ。鶴が鳴くときは私のことを尋ねてくれ。)と、軽大郎女の「君が行きけ長く
なりぬ山釿の迎へを行かむ 待つには待たじ
」(お迎えにまいります。待ちきれません。)を並べ
て刻んだ歌碑が建立されている。

 なお、「山釿」とは、植物のニワトコのことで、「山釿の」は「迎へ」の詞となっている。

木梨軽皇子と軽大郎女    


茅淳宮・衣通姫地図
’(允恭天皇の宮跡の一つ)
   
2022-10-12撮影    茅淳宮跡の石碑
   
  中村児童公園内にある衣通姫の伝説と宮跡の説明板
衣通姫の伝説と宮跡

  とこしへに 君も会へやも いさな取り 
   海の浜藻の寄る時々を

允恭天皇はしばしば行幸なされた

衣通姫在住の史蹟(書紀による)で

その後も芽渟宮として泉州行政の

中心であった郷人今に傳へて毎年

春彼岸墓前祭を催し歌人の徳を偲ぶ 

 

上之郷中村にあったとされる茅渟の宮に住まったと伝えられる、允恭天皇の皇后の妹姫。 允恭天皇との忍ぶ恋のロマンスが日本書紀に記されています。この名前は、容姿が大変美しく、身の輝きが衣を通して見えるほどであったからだといいます。 《5世紀中頃のこと。允恭天皇は皇后の妹である衣通姫を愛していました。しかし姉である皇后の嫉妬はひどく、天皇は衣通姫のために「茅渟の宮」を造営。姫を都からそこへ移しました。そして、天皇は姫に会うため、遊猟といっては日根野におもむきました。しかし、見かねた皇后が「人民の迷惑も考えてつつしんでください」と願い出たため、天皇は遊猟をあまり行わなくなりました。そこで衣通姫は、忍ぶ恋路ゆえの待つ身のつらさを、「とこしへに、君もあへやも いさな取り、海の浜藻の 寄る時々を」(私は海の浜藻が波のままに岸辺へ近寄り漂うように、まれにしかお会いしておりません)という歌に詠みました。天皇は「この歌は皇后の耳に入るといけない。他人にもらさぬように」と注意されたそうです。それから土地の人は、海藻のことを「なのりそも」(告げるな=知らせるな)と呼ぶようになったといいます。》 上之郷には茅渟の宮跡とされる伝承地があり、この歌の石碑が建てられ、毎年春には宮を守る地域の人々によって姫をしのぶ祭りが行われています。
(出典:『泉佐野何でも百科』  泉佐野市役所  1994  132ページ)

 
 中村児童公園内にある茅淳宮跡の碑
 宮の跡⇒

 天皇、則ち更に宮室を河内の茅淳に興造てて、衣通郎姫を居らしめたまふ。此

に因りて、屢(しばしば)日根野に遊猟したまふ。

 九年の春二月に、茅淳宮に幸す。

 秋八月に、茅淳に幸す。

 冬十月に、茅淳に幸す。

 十年の春正月に、茅停に幸す。是に、皇后、奏して言したまはく、「妾、毫毛ばか

りも、弟姫を焼むに非ず。然れども恐るらくは、陛下、慶茅停に幸すことを。是、

百姓の苦ならむか。仰願はくは、車駕の数を除めたまへ」とまうしたまふ。是の後に、

希有に幸す。

 茅淳は、後の和泉国一帯の地域の名。奈良時代の茅淳宮は大阪 府泉佐野市上
之郷の地。
5世紀頃、 知性と美しさを兼ねそなえた衣通姫はこの地域に住み、

頻繁に允恭天皇がこの地を訪れていた。

伝承によれば、 この茅渟宮はその後和泉国の拠点 (要所) として残された.

衣通姫は死後も和歌の女神として奉られ、 地元の保存会によって

毎年春のお彼岸の際に衣通姫の墓前祭が開催されている。

 
 中谷藤吉翁之像

























































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