柿本寺跡(しほんじ地図
和邇下神社地図





柿本寺跡

 
   
 このあたりはかって、柿本寺があった。
この寺は名前の通り柿本氏の氏寺で、ここに柿本人麻呂の遺骨を葬ったのが今の歌塚だといわれている。
寺跡には今も礎石の一部が残っており、奈良時代の古瓦が採集されている。 
 文献では延久2年(1070)の興福寺雑役免帳束諸部にその名が見えるのが最初で、寿永2年(1183)の
柿本朝臣人麿勘文に春道社の杜の中に寺あり、柿本寺と号すと記されている。
 南北朝時代の建武4年(1337)には北朝軍の陣地がおかれていた。
 室町時代頃には現在の櫟本小学校西側の地に移転し、江戸時代には学僧が多く出て和歌や茶の湯に親しんだ。
明治時代の初めころに廃寺となったが、南北朝時代前後に描かれた柿本宮曼荼羅ほかの寺宝がのこされている。 
 歌塚の碑は享保17年(1732)に森本宗範(医師)や柿本寺の僧らによって建立されたものである。
 立派な「歌塚」の文字⇒⇒⇒
 人麻呂が石見で亡くなった後、石見でめとった妻(石見姫)が、人麻呂が生まれた土地に遺髪を持ち帰り葬った
場所とされている。  

 櫟本町の和邇下神社の西側の、奈良時代創建と推定される柿本寺跡に4尺ばかりの小塚があり、柿本人麻呂の
墳墓と伝承され歌塚と称されてきた。

この伝承は寿永3 (1 1 84)年に顕昭が著した「柿本朝臣人麻呂勘文」に記されており、歌塚は鎌倉期製の「柿本宮曼
荼羅」にも画かれている。

人麻呂は生没年、墓所は不明であるが、いつ頃か没年は神亀元(724)年3月18日が当てられるようになった。
享保8(1723)年は没後1
千年にあたるということで、ゆかりの地の一つである石見国高津の柿本神社が正一位に叙せ
られた。このときにあたり宗範が以前より柿本寺の僧に乞われていた歌塚の来歴を著したのが、「歌塚縁起」 であり
顕彰するため、柿本寺の僧と共に歌塚に建立したのが歌塚碑である。

 天理市櫟本町は、柿本人麻呂の生地であると伝え られ、和爾下神社の西に歌聖ゆかりの歌塚が建って

いる。任地の石見国で死んだ人麻呂の遺髪を、後の妻である依羅娘子(よさみのおとめ)が持ち帰って

葬ったものという。人麻呂崇敬が盛んになるにつれ、平安時代には、「歌塚」として有名になった。
 現在の碑は享保17年(1732)に建てられ、表面の文字は後西天皇の皇女宝鏡尼の筆による。
また、柿本氏の氏寺である柿本寺(しほんじ)の跡にあたる。  

 柿本神社⇒

和邇下神社地図

 
   
 和邇下神社   和爾下神社古墳 
 桃山時代の様式をもつ切妻造りの檜皮葺の社殿。(重文)
社殿は、4世紀後半頃築造の前方後円墳の上に建っている。
 神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、
道も新しく真直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。
 和邇下神社古墳の上に祀られた神社で櫟本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本鎮
守の神社である。
 この治道社(春道社とも書く)の祭神は素戔嗚命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、
ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。
 明治初年に延喜式内の和邇下神社がこれに当たると考証されて社名を和邇下神社と定めた。
 今の社殿は、三間社流れ造り、檜皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築(桃山時代)と
して重文にしていされている。  
  殿(重要文化財)

 和爾下神社は同名の神社が2座あり、天理市櫟本と大和郡山市の和爾下神社である。奈良時代の
記録には、東大寺領の櫟庄を灌漑す
るため
高橋川の水路を変更し道路も付け替えたことが見える。神社は別名治道(はるみち)社とも
よばれる。古代の有力な氏族であった和爾氏が祭祀する神社でも
あった。

 和邇下神社は、前方後円墳の上に建立された神社である。
 現在の祭神は素戔嗚命大己貴命稲田媛命であるが、明治始めまでは、天足彦国押人命、
彦姥津命(ひこおけつのみこと)、彦国葺命(ひこくにぶくのみこと)とあり、和珥氏の先祖にあたる。 
 和邇下神社古墳は、主軸を南北にした全長105mの前方後円墳、後円部に和邇下神社が鎮座
している。
 古墳西側の柿本寺跡地に石棺の一部が置かれている。石材は、姫路の竜山石で作らている。
採取された埴輪などにより古墳時代前期末
から中期ごろに築造されたと考えられる。
被葬者は、和珥氏の有力者ではないかと考えられる。   
奈良の古墳  和邇下神社  唐招提寺への道 大和路 東山魁夷大和路
ワニ氏の実像に迫る     

和爾下神社古墳

 南北に主軸を置く前方後円墳である。全長約105m、後円部高さは約12mである。後円部に和爾下神

社が鎮座する。墳丘西側には石棺の一部が置かれている。竜山石と呼ばれる姫路方面に産出する
石材
で作られている。採集される埴輪などにより古墳時代前期末から中期初頭ごろに築造された。

ワニ氏
 臣姓豪族 始祖:天足彦国押人命(あまたらしひこおしひと・考昭天皇皇子)
 開化・応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達など5〜6世紀に大王家との婚姻関係を継続
 日本書紀 神宮皇后紀
  武内宿祢・和珥臣の祖武振熊に命じて、数万の衆を率いて、忍熊王を撃つたしむ。
 欽明朝以降、ワニ氏の名が見えず→春日氏に改姓し本拠地を移転したか。
 春日氏を中心に大宅・粟田・小野・柿本など16氏族が分立、巨大豪族に。
 日本書紀天武紀 ワニ部臣君手の活躍
 推古朝、小野妹子遣隋使となる。
 柿本人麻呂、万葉歌人として活躍。

 古道とワニ氏
  山の辺の道・上ツ道・・・南北方向
  龍田道・都祁山道・・・東西方向 東は都祁から伊賀・伊勢に至る。
  交通の要衝としての櫟本地区を支配する豪族として、ワニ氏が成立。  

人麻呂挽歌

 万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂の生地は、一説によると天理市櫟本町と伝えられ、

和爾下神社の西に歌聖ゆかりの歌塚が建っています。任地である石見の国で死んだ人麻呂

の遺髪を、後の妻依羅娘女(よさみのおとめ)が持ち帰って葬ったもので、
現在の碑は享保17年(1732)に建て
られました。

人麻呂は、山の辺の道のあたりを詠んだ歌を数多く残しています。

  ―衾道を  引手の山に妹を置きて

    山路を行けは 生けりともなし―

愛する妻(軽良女?)の死に際して詠んだこの歌からは、歌人の深い悲しみが伝わってき

ますが、ここに詠まれた引手の山とは龍王山のこと。山腹におびただしく残る古墳群のう

ちのひとつが彼女の墓だったのでしょうか。

今、龍王山を望む山の辺の道沿いにひっそりと歌碑が建っています。

MOTTO てんり より

衾道を 引手の山に⇒⇒⇒

柿本人麻呂
柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ  軽のチマタ
柿本寺跡
飛鳥について
最古の木簡
柿本人麻呂
藤原宮跡
石上神宮
雷丘
橘寺
和邇下神社
柿本人麻呂・万葉集第二期代表歌人
森王墓古墳
浮浪者の餓死
風水説による都城
近江京の址
持統 直孫への執念
万葉集 見れど飽かぬ
万葉集
伊勢神宮の起源
かぎろひの丘
唐招提寺への道 大和路 東山魁夷大和路
河嶋・大津・忍壁皇子の交わり 
哭(泣)沢の女神
歌の伝統 (影媛の悲恋物語 より)
なぞの多い人麻呂
大伴家持
鷺栖神社
小野篁と珍皇寺
山高み河雄大 
軽皇子の阿騎野 
東の野に炎の
高市皇子の挽歌 
吉野宮
河島皇子の挽歌
新田部皇子への献歌
近江荒都歌
いろはにほへと人麻呂





































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