竹林院地図
桜本坊地図
喜蔵院
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大日寺
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東南院
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勝手神社跡(吉野山口神社)地図

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竹林院

   
   

群芳園

 竹林院の庭園は群芳園と称し、当麻寺中の坊·大和小泉の慈光院とともに.大和

三庭園の一つに教えられています。.

 室町時代の末頃竹林院第二十一代住職祐尊が大峰山にも竹林院を建て、又山上の

様子を下院に移して庭園を築造」ました。

 その後、豊太閤の吉野山観桜(一五九四)の際、千利休がそれまであったものに手を加

え今見られるよ な 桃山風の庭園に修築しなのですが、一説には細川幽斎が改築

たものと伝えられています。庭は池泉回遊式の形をとり、奥庭の蓬莱石組が中心になって
るのは桃山時代の作
風を示し、二重集団二重護岸の石組なとは室町時代の遺構をその
まま残して
います。

 庭園内には五十種ほどの椿や桜、松葉、馬酔木等が植えられており吉野山の自然の景

観も取り入れ 借景式の庭園としても四季折々見る人を楽しませてくれます。

 




桜本坊
   
 本堂 山門 
 櫻本坊は役行者が開いた修験道の根本道場です。冬の夜、満開の

桜の夢を見た大海人皇子(後の天武天皇)が、672年の壬申の乱に勝った
後に即位しました。天武
天皇が吉野山に登り、夢に出た桜のもとに寺を
建てたとされていま
す。 

釈迦如来坐像⇒⇒⇒

   
 
   







喜蔵院
 
 
 

 桜本坊は、天武天皇が桜の吉夢を見て建て

られた古刹で、以耒千数百年法灯の絶えるこ

とがありませんでした。しかし明治初年の廃

仏棄釈によって一時は寺運も衰えた受難の寺

でしたが、その後大いに復興し、現在は山伏

文化の殿堂と称せられるほど宝物も多く、金

銅釈迦如耒の推古仏(重文) 藤原時代の木造地

蔵菩薩坐像(重文)、鎌倉時代の木造役行者倚像

(重文)をはじめ、金峯出土の線刻金剛蔵王権

現鏡像ほか、修験道に関する古文書、大峯絵

卷や桜絵巻など、数多く蔵しています。

 また本坊は役行渚威得の聖天(大聖歓喜天)

を併杞し、「吉野の聖天さん」として春秋の大祭

には家運繁栄を祈る人たちでにぎわいます。

 本坊も宿坊であるため、宮殿をもち、大広

間を天武天皇ゆかりの日雄殿と称しています

 なお境内には県下でも珍らしい、樹令約三

百五十年をへたギンモクセイの巨木があって

県指定の天然記念物として保護されています

   
 








大日寺(だいにちじ)
 
 この道を右に下ると、右手の台地に 宝形づくりの

本堂を備えた大日寺があります。今は真言宗醍醐派
に属
していますが、寺伝によると、大海人 (後の天武天皇)

ゆかりと云われ、吉野山で最古の寺院であったと伝

われている曰雄寺の跡と伝えられています。

 大日寺の名が示すとおり、この寺には大日如来を中心

として五体からなる藤原時代の木造五智如来坐像が安置

されています。如来諸尊の舟形光背は、唐草透し彫の金

箔押し、金剛界大日如来を表す智挙印を結んだ指の優雅

さ、やさしさの中にもきびしさを秘めた面相、結跏趺坐

する台座の蓮弁は巧緻をきわめた美術品としても高く評

価されており、藤原時代の仏像の特長がよく表現されて

います。

 金剛界五智如来とは、大日如来を中尊として左右に

阿悶・宝生・無量寿・不空成就のの各如来を配置して

一組として祀るものですが、この地方には珍しくこの寺

には五体諸尊が完全にそろっており、重要文化財に
指定
されています。

 また、この寺は、元弘の変(一三三三)の吉野落城

際、大塔宮護良親王の身代わりとなって忠死をとげ

上義光·義隆父子の菩提寺として、南北朝時代前夜の
歴史をとどめています。





東南院
   

 当院の開基も、修験の吉野山にふさわしく役行者という伝承をもっているので、千三百

年の歴史があるわけです。奈良や比叡山など古い霊地霊山には、東南院あるいは東南寺と

いう名の、寺院かあるのが普通ですが,これは、開基または始祖といわれる人が、その霊

地を開くときに、中心になる伽藍を建てると同時に、そこから巽(東南)の方角に当る所に寺

を建て、一山の興隆を祈願するということが行われていました。これで当院が吉野山で占

める位置が了解できるかと思います。

 当院は本堂·多宝塔·庫裡·客殿からなっていますが、多宝塔は明治初年まで、紀州野上の八

幡宮の境内にあったのを、昭和十二年に当院へ移築したもので、正面の鰐口には永禄七年

(一五六四)の銘があり、鎌倉期の作と伝える大日如来·毘沙門天·不動明王などが祀られて
います。

 なお当院は宿坊といって、一般の寺とはちかう一面があります。昔吉野山には数多くの

宿坊かありましたが、これは吉野山から大峯山へ参る大勢の修験行者が参篭する所てきびし
い修業の中での、しばしの憩いの場となっていました
。 

   





勝手神社
   

 吉野八社明神のひとつで、金峯山の山の入口にあるので山口神社ともいいます。

 文治元年(一一八五)の暮れ、源義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前は 従者の雑

色男に金銀を壽われ、 i山中をさ迷っていると,ころを追手に捕 えられて、:この社殿の前で雅

た姿で法楽の舞をまい、,居並ぶ荒法師たちを感嘆させたとう話が伝えられています。..

 この神社の祭神は、大山祇神・,木花咲耶姫命ほか三神で、社殿ぱ豊富秀頼が慶長九年(一

六〇四)に改修したのが、正保元年(一六四四)十二月に焼亡したので、翌二年に再建され、さ

らに明和四年(一七六七)にまたも焼失しました。,

現在の建物はこの後の再建になるものです。

 社殿の後の山を袖振山といって、天智天皇の十年(六七二)大友皇子に対抗して、吉野( 今
の宮滝か)に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が、この神前で琴をかなでていると、天女が後
ろの山の上から袖をひるがえして舞いながら現れ、吉兆を示しました。この故事が五節の舞の
起りだといわれ、芸ごとに深いかかわりを持つ神様とされて、かつては猿楽や能が盛んに奉納

されました。   

五節舞

 2019年11月に行われた大嘗祭の一環として催された大饗の儀では、

久米舞、五節舞などの歌舞が奏されました。

 「五節舞」は、天武天皇吉野宮で琴を弾じたときに、天女が降臨して袖
を五度翻して舞ったものを
もとにつくられたという伝説があります。また、
五穀豊穣を祝う舞で
あったともいわれています。

 現在伝わるものは、大正天皇即位の際に復活したものですが、「五節舞」は
古代の文献にも見られま
す。最も古い記録は、『続日本紀天平14(742)
年正月に恭仁京
の大安殿における宴で披露された「五節田舞」という舞です。
翌天平
15年5月には、当時の皇太子であった第45代聖武天皇の娘である
阿部
内親王(孝謙天皇)が自ら五節舞を舞われました。右大臣の橘諸兄が、

聖武天皇の詔を承けて、元正太上天皇に、「天武天皇は、世の中は礼節と
音楽がそろってこそ平穏にな
るとお思いになり、そのためにこの舞をおつ
くりになりました。そし
て、この舞を天と地と共に、絶えることなく受け継が
れていくものと
して、皇太子に習わせ、元正太上天皇の御前で舞をご覧に
入れます。」

と奏上しました。これを聞いて、元正太上天皇は大変喜ばれました。

 また、天平勝宝4(752)年の大寺大仏開眼会でも披露されています。

勝手神社

 壬申の乱の際吉野で挙兵した大海人皇子がこの神社で琴を

奏でていると、 背後の袖振山から天女が現れ、五度袖を翻して

舞い、吉兆を示したという伝説が残ります。

  県民だより奈良 2020 2月号 ぶらり日本書紀 より


   

 勝手神社は、平成十三年九月二十七日に残念なことに、不審火により

焼失しました。

 当神社は、元「吉野山口神社」とも「勝手明神」とも称された由緒のある
式内社で、「五節の舞」の発祥地
と伝えられる歴史的にも大変貴重な文化
財でございます。

 創建は、不明なるも一説によれば孝安天皇六年(紀元前三八六年)と
えられ御祭神は、天忍穂耳命,大
山祇命,久々能智命·木花咲耶姫命苔虫命·
葉野姫命の六神で、「勝運」
と「芸能」や「山の神」「花の神」の御神徳が厚く
古来より全国の人々から
崇敬されてきました。

 大海皇子(天武天皇)が境内で琴を奏でたところ、袖振山から天女が舞い
下り舞ったり、静御前が捕らえら
れ境内で舞をさせられた舞塚があることで
も有名です。

 また、建物は「三間社流造り」で檜皮葺の日本でも数少ない社で、厳かで

優美なために県の有形文化財に指定されています。

 つきましては、この吉野山におこしの皆様方に、この大切な文化財を再

建復興して後世に遺し伝えるために深くご理解を戴きまして何卒格別の
協賛を賜りますように、ここに懇
願申し上げる次第でございます。

 御寄付の受付は、「吉水神社」にて行っています。(ご朱印も賜っています)

 なお、「御神体」は復興まで吉水神社に仮遷座されていますので、御参拝

ください。

                                  敬白

         勝手神社宮司佐藤 一 彦

         神社総代一同..