吉野宮(吉野離宮)地図
吉野歴史資料館地図
桜木神社地図
十二社神社地図
善生寺地図
青根ヶ峯の信仰 美しい吉野の山々は、 古代 から神聖な山とされてきました。 宮滝の真南にある青根ヶ峯 (水分山) も、 そうした山のひ とつでした。 奈良時代、 雨の少ないとき には、この山に祈りがささげ られました。 青根ヶ峯を真南 に仰ぎみることのできる場所 であったために、 宮滝に吉野 宮が造られたと推定されてい ます。 |
向かって右の山 象山(きさやま) 左の山 三船山 み吉野の 象山の際の 木末には ここだもさわく 鳥の声かも 山部赤人 際の: まの 木末: こぬれ 滝の上の 三船の山に居る雲の 常にあらむと わが思はなくに 弓削皇子 |
発掘調査で分かってきた宮滝遺跡のこと 繩文時代 早期の土器が出土。 この頃から宮滝で人々の営みがあったか。「宮滝式」 が使われた後期や、 晩期にかけての土器が多く出土。 弥生時代 前期~中期まで集落 (竪穴建物や方形周溝墓など) が営まれる。 飛鳥時代 宮滝の中心部に、 苑池状の池を伴う建物群が整備される。 苑池状の池よりも西側の場所で、 大型建物を中心に整然と並ぶ。 奈良時代 建物群が整備される。 石敷きなども伴う大規模なもの。 平安時代 礎石建物一棟などが確認されている。 鎌倉時代 この頃使われた食器 (瓦器椀等) が出土している。 江戸時代 まじないが書かれた土器が確認されている。 |
吉野宮、吉野離宮で起こった主な出来事
659年 斉明天皇、 吉野宮をつくる。 659年 斉明天皇、吉野宮行幸。 672年 大海人皇子、 吉野で挙兵する (壬申の乱)。 679年 天武天皇、皇后や6人の皇子たちと吉野で盟約。 689~ この間、 持統天皇が吉野宮行幸を31回行う。 697年 701年 文武天皇、 吉野離宮行幸。持統太上天皇、 吉野離宮行幸。 702年 文武天皇、 吉野離宮行幸。 723年 元正天皇、 吉野宮行幸。724年 聖武天皇、 吉野宮行幸。 736年 聖武天皇、 吉野離宮行幸。 |
宮滝遺跡について
宮滝遺跡は吉野町宮滝にある遺跡です。 その範囲は宮滝の集落の大部分 (約11万㎡) に及びます。 これまで の調査で、縄文時代早期~江戸時代にかけての遺構や遺物が出土しています。 この中で特に注目されるのは、 まず、飛鳥時代になって、 宮滝の集落のほぼ中央に、 中島をもつ池や建物群が整備されました。 その後、池は 埋め立てられ、 建物群は宮滝の集落の西側に移されました。 23.7m×9.6m(床面積) という大型の建物も建て られました。 これらの建物群は奈良時代前半まで機能していたようです。 この建物群は、「古事記」や 「日本書紀」 などに記録されている離宮 吉野宮の跡と考えられています。 吉野宮 は壬申の乱が起こったり、 「万葉集」 に載る歌が多く読まれたりした場所でした。 また、宮滝は縄文時代の遺跡としても著名です。 この宮滝遺跡で初めて確認された 「宮滝式」 等の土器は、昭 和の縄文時代研究に大きく貢献しました。 これらの土器は、 今、 奈良県指定文化財となっています。 そんな宮滝遺跡の調査の歴史は古く、 明治時代には遺跡であることが確認され、 昭和5年には第1次調査が始 められています。 以来、 今日までに 70 次に及ぶ調査が行われてきました (令和2年 12月末現在)。 昭和 32 年には、 「様々な時代の遺物を包含する山地の遺跡」 と評価され、 遺物包含地その他、 宮跡その他の基準により、 遺跡内の約2.2万㎡が国史跡に指定されています。 |
吉野宮滝野外学校前の碑 | 吉野離宮跡とされる場所の碑 |
梅谷味噌醤油店 地図 | 中島を持つ池のあったところ地図 |
吉野宮跡の中心地 |
上代人のふるさと 吉野宮滝 大和は国のまほろば、日本人のふる里とたたえられているように、上代の人たち、ここに 古く応神天皇(二一九) や雄略天皇(四六〇)が吉野に行幸したと日本書紀に見え、天智天皇 よき人のよしとよく見てよしといひし 吉野よく見よよき人よく見つ と詠まれています。 この宮滝は、飛鳥奈良時代の離宮のあったところだとされ、地下遺構が発掘されています。 喜佐谷 (象の小川)の奥を見あげると、金峯神社の鎮座する吉野山が望まれますが、昔の人 吉野町観光課 |
応神天皇 十九年の冬十月の戊戌の朔に、吉野宮(※1)に幸す。時に国樔(※2)人来朝り。因りて 醴酒を以て、天皇に献りて、歌して曰さく、 幸す いでます 国樔人来朝り くずひとまうけり 因りて よりて 醴酒を以て こざけをもて 献りて たてまつりて 歌して曰さく うたよみしてまうさく ※1: 吉野宮は七・八世紀にしばしば利用された離宮。斉明二年是歳条に「又作吉 野宮」とあ る。 奈良県吉野郡吉野町宮滝の辺か いう。 ※2:吉野川上流の住民。 古事記には国主(くず) と ある。 四姓氏録、大和神別に「国栖、出自石穂押別神也。神武天皇行幸吉野時、 爾時詔賜国栖名」とある。 |
雄略天皇 冬十月の辛未の朔癸酉(三日)に吉野宮(※1)に幸す。丙子に、御馬瀬(※3)に幸す。 ※3:大和志に吉野郡麻志口村とするが未詳。 |
この絵は、壬申の乱に際して
大海人皇子を助けた国栖翁の伝 説を描いたものです。 『日本書紀』応神天皇十九年冬 十月条の記事は、現在も国栖で おこなわれている国栖奏の起源 伝承です。 国栖奏が宮中の節会に取り入れ られた背景には、大海人皇子と 国栖の人々との交流があったから だと考えられています。 |
宮滝は吉野川が大きく蛇行し、 川幅が狭くなり奇岩が屏風のように切り立っている。 こう
した景観は、古代から風光明媚な地として知られ、斉明天皇が吉野宮を、 聖武天皇が吉野 離宮を造営した。 この場所は、 吉野林業が発達すると奥地から材木を流下する際の難所の 一つとなり、岩場の開削がおこなわれ、 その後が今も残されている。 これによって筏の流 下が容易となり、 吉野林業の発達に貢献した。 この附近の流れは今も激しく、 飛び込みは 禁止されている。 |
宮滝遺跡HP |
夢のわだ 地図
柴橋のすぐ下流で象の小川が吉野川に注ぐところを 「夢の和田、夢が淵、 或は観浄、 夢が淵。」 と呼んでいます。 万葉注釈には 「和田は水の淀める淵なり」とあり、 多くの万葉人がこの淵 を歌に詠んでいます。 |
中岩の松 地図 | 柴橋 地図 |
柴橋からの展望
昔の柴橋は文字どおり木や柴で作られ、ここから五百米ほど上流に架かっていました。 今は鉄橋に架けかえられてその名をとどめています。橋の中ほどから見る上流正面の山 は「舟張山」といい、ふもとの里は「菜摘(なつみ)」です。 すぐ右手に迫る山は「三舟山」と 下流左手の山が「象(きさ)の中山」 その山すそを流れる渓流が「象の小川」で、本流に注 すぐ右手 の生い茂る岩山を「中岩の松」といいますが、吉野山に南朝の皇居があった とき、まだ幼かった寛成親王(後の長慶天皇)が狩りにこられ、吉野川の水面に映える松の 美しさを愛でられ「この松を天皇(後村上天皇)に奉ろう。岩ごと皇居へ持ち帰れ」と供の者 にむづかられたという逸話が、吉野拾遺に残されています。度たびの洪水にも耐えて、今 なお往時の美しさを見せています。 吉野町観光課 |
野外学校の前 万葉歌碑 地図 | |
八隅知之 吾大王之 所聞食 天下爾 国者思毛
沢二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃国之 花散相 秋津乃野辺爾 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 且川渡 舟競 夕河渡 絶事奈久 此山乃 彌高思良珠 水激 滝之宮子波 見礼跡 不飽可聞
多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の花 散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の大宮 人は 船並めて 朝川渡り 船競ひ 夕川渡る この川の絶 ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく また還り見む
我らが大君のお治めになる国はたくさんあるけれど、山川が清らかで、 清らかな河内に あって、 内にある御心をおよせになる吉野の国の、 花が舞い散る秋津の野辺に、 宮柱が敷 きつめられた立派な建物をお建てになり、そこに集うたくさんの大宮人たちは船をなら べて朝に川を渡り、 舟を競って夕方の川を渡っている。 そんな大宮人たちがつどう川が 絶えることなく続いていくように、 また、 絶え間なく続いていく周りの山々の高さがは かりしれないように、立派に大君がお治めになる水たぎる滝の都は、いくら見ても見飽 きないなぁ。 いくら見ても見飽きない吉野の川の滑らかな流れが、いつまでも絶えないように、私も 絶えることなくまたこの吉野の宮に戻ってきて、この景色をみよう。 【作者】 柿本人麻呂 【揮毫者】 国文学者 國學院大學 武田祐吉. 【建立者】 北岡寿逸 【備考】 洪水でながされたため、建て直されています。 |
吉野宮跡にある珈琲店 弓絃葉 |
弓削皇子の歌に因んでつけられた店名とのこと。鉢植えの木も弓絃葉。 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の 御井(みい)の上より 鳴き渡り行く 2ー0111 弓削皇子が額田王に贈った歌。 |
うたた寝橋跡地図 |
桜木神社の前の象の小川に架かる 「こぬれ橋」 と同じような橋が、 昭和36年頃まで象の
川が 「夢のわだ」に注ぐ少し上の所に架けられていました。 「文治の春、 源義経の吉野落 時疲労のためこの橋の上でうたた寝をした。」 という故事からこの名がつけられたものだ 伝えられています。 |
奈良時代の聖武天皇らが訪れた「吉野宮(吉野離宮)」の大極殿や正殿の可能性も 宮滝遺跡は飛鳥~奈良時代の複数の天皇が訪れた吉野宮の有力候補地とされ、 1930年の最初の調査は、奈良県としても初めての大規模な発掘調査だったのではない 今回、建物跡は吉野川から数点の場所で見つかった。今は木が生い茂り、川が見え ないが、戦前までは川と対岸の集落まで見渡せたという。 川沿いに立つと、万葉集にも詠まれた象山(きさやま)がそびえ、眼下には吉野川が 宮滝遺跡は史跡公園として整備される予定で、今年度も発掘調査を行う。過去の 次に近くの吉野歴史資料館へ向かった。ここでは宮滝遺跡で見つかった土器や瓦など を展示している。宮滝遺跡は縄文時代から弥生時代の遺構も見つかっている。豊富な 館内にある吉野離宮の復元図は、大極殿などの宮殿の中枢部を山沿いに配置してい る。中東さんは「今回、大型建物跡が川沿いで見つかったので、考え直さないといけませ 遺跡の周辺には多くの万葉歌碑が建てられている。天皇と一緒に、多くの万葉歌人が 吉野宮を訪れ、歌を詠んだのだ。地元の中荘地区まちづくり協議会が発行している観光 マップには歌碑の場所が詳しく紹介されている。それを頼りに、資料館から約1キロ南の 桜木神社に向かった。境内には山部赤人の歌碑があり、神社のすぐ下を万葉集に歌わ 神社の由緒によると、大海皇子(後の天武天皇)が吉野に身を隠していたとき、桜の木 |
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奈良:宮滝遺跡 昨年の調査で大型建物跡が確認され、吉野宫(離宮) の所在地との見方が強まった 専門家は、聖武天皇(在位724~749)ら飛鳥~奈良時代の複数の天皇が訪れたとさ |
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万葉学徒となって、40年近い時が過ぎた。そのなかで、「なるほど」とか、「そうだった そして、今回の発掘成果の発表で、また新たな知見が加えられることになった。離宮 の宮殿の並び方が、ほぼ明らかになったのだ。 建物の大きさや並び方は、その建物 私は、建物群の配置図の説明を最初に受けた時、こんな声を上げた。「えぇつ、こん なに本格的な宮殿だったのぉー」と。激流さかまく当時の吉野の川。建物の建設が困難 なその地に、まるで平城宮のような本格的な宮殿が造られた。これこそが、大君すなわ ち天皇の偉大なる力なのだと万葉歌人たちが、ロ々に歌った理由が、今、ようやくわか 山部赤人(生年未詳~736?)は、わが天皇が政治をなさる吉野の宮は、折り重なっ らかなところに建っていると述べている。 やすみしし わご大君の 高知らす 吉野宮は たたなづく そして、この長歌はこう歌い収められているのだ。「このすばらしい山々が高々とそ と。 「その山の いやますますに この川の 絶ゆることなく ももしきの 立派な宮殿は、国家のシンボルであり、統治者の威信を示す。 したがって、宮を誉 その宮を取り囲む山水を誉め讃えたのである。 しかし、それだけでは、立派な宮とはいえない。 そこに働く人びとが自分たちから通っ 建てられていたのだから――。2019-7-31 朝日新聞 |
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山影を背に両岸から迫る岩肌の間で、吉野川の水がしぶきを立てる。「幻」の古代の 離宮が、この先に。 「あんなとこ、何にもないよ。草刈りはしたけど」。近くに住む人に尋ねると、そう言われ 奈良県の真ん中あたりに位置する吉野町宮滝に、宮滝遺跡はある。離宮「吉野宮」は 日本書紀の記述によれば、吉野宮は656年に斉明天皇が造営した。 飛鳥~奈良時代の天皇が訪れ、なかでも持統天皇は在位中に30回以上も行幸したと 万葉集には柿本人麻呂が「見れど飽かぬ吉野川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見 何もないこの遺跡が、今年度の県の観光キャンペーンポスターに抜擢された。朝もやの なぜ、いま、宮滝遺跡なのか。 古代日本における最大の内乱「壬申の乱」が起こったのは672年。今年は1350年の節目 大海人皇子(天武天皇)はこの地で兵を挙げ、三重県や岐阜県を回って援軍を集め、大 吉野宮はかつては場所がはっきりせず、「幻の離宮」とも言われた。昭和初期には、所在 宮滝遺跡では2017~18年の調査で奈良時代前半 (8世紀前半)の大型の建物跡が見つか では、大海人皇子が挙兵した頃の建物は? 中東さんに聞くと、みそ・しょうゆ製造の梅谷 発掘調査は難しそうだが、人の営みの積み重ねを感じながら、蔵を見上げた。 |
吉野歴史資料館
「吉野歴史資料館」には、縄文、弥生、 飛鳥、奈良時代 と異なった年代の遺跡が見つかっている宮滝遺跡 の発掘成果及び吉野離宮関係の出土遺物や復元図 が展示されています。 |
歴史資料館⇒ |
縄文時代の自然 いまからおよそ1万年前から紀元前3世紀までの時代を縄 文時代といいます。 このころ日本の広い地域が温暖な気候 となったため、四季を通じて緑色の厚い葉をもち、秋には 実をみのらせるコジイやイチイガシなどの森が各地に発達 しました。 こうした森林は、 現在よりも豊かな水量で、水面も高か った吉野川とともに、 縄文人たちの大切な生活の場となっ ていました。 妹山樹叢は、この時代の森林のようすをいまに伝え、天 然記念物に指定されています。 吉野の縄文人は、 宮滝に住みついていたのではなく、 季節におうじて食べ物を求め、 吉野川沿いを移動しながら生活していたと考えられています。 |
サヌカイトの原石 (二上山採取)
サヌカイトは縄文時代から石器の素材とし て盛んに利用されていました。 宮滝遺跡から も、この石で作った皮剥などの石器が出土し ています。 この時代の宮滝は吉野川沿いの村々に二上 山産のサヌカイトを供給するための集積地のひ とつと考えられています。 |
よき人のよしとよく見て
よしといひし よしのよく見よ よき人よく見 【歌の大意】 よき人が良いところだとよく見て 人よ、よく見なさい。 【作者】天武天皇 【揮毫者】 上野誠 【建立者】 吉野町 【備考】 天武天皇が吉野で、 皇后 六人の皇子た たちと盟約をした時に詠んだ、とされる 歌です。 |
国栖らが 春菜つむらむ 司馬の野の しばしば 君を 思ふこのころ 【歌の大意】 国栖の人たちが春に菜を摘むという司 馬の野という野がある。 そんな「司馬」 と いう地名のように、しばしば君を思うこ の頃です。 【 作 者】 詠み人しらず 【揮毫者】竹林院住職 福井盟 【建立者】 吉野町 【備考】 「しばしば」 という言葉をひきだすため に、吉野にあった 「司馬の野」 という地名 をだす、 言葉遊びのような歌です。 |
かはず鳴く
よしのの川の瀧の上の あしびの花ぞ 端に置くな ゆめ 【歌の大意】 カエルが鳴く、水たぎる吉野の川の上で 育ったアセビの花だぞ。 端っこになんて 置くなよ。 ぜったいに! 【 作 者】 詠み人しらず 【揮毫者】上野 誠 【建立者】 吉野町 【備考】 なんでこんなにアセビがもちあげられて いるのでしょう? |
古代の代表的な歌集 「万葉集」には、 吉野町内の地名などを詠んだものが
たくさんあります。 斉明天皇以後、この地に吉野宮が造営されたこともあって、たくさんの大宮 人が訪れ、 吉野川をはじめとする山河の美しさを歌にしました。 |
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと
吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳づく 青垣山 山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも たぎつ河内に 船出せすかも よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見 わが行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にあらぬかも み吉野の 青根が峯の 蘿蓆(こけむしろ) 水分山を 見ればかなしも 作者不詳 |
吉野宮の復元
この模型は、 宮滝遺跡をはじめ飛鳥京跡の発掘 調査や、建築史の研究成果などに基づき、 中央の 正殿などを推定して、 持統朝頃の吉野宮を100分 の1の縮尺で復元したものです。長い廊下のよう な建物や庭園などは、この時代の特徴的な施設です。 当時の宮は、現在の国道169号と当館への進入 道路が交差した辺りを中心に造営されていました。 |
奈良時代には宮滝に吉野 (芳野) 離宮が営まれ、聖武天皇がおと
ずれた記録があります。 吉野離宮は宮滝の西区域にあり、 山際から川岸近くまでたくさんの建物が建てられていたと考えられています。 離宮には瓦で葺かれ た建物もあり、 建物の周囲には石が敷きつめられていました。 飛鳥時代の吉野宮は、 青根ヶ峯の方角を意識して真南を向いて造 営されましたが、 この離宮は吉野宮の西側に南東方向をむいて造ら れました。 |
桜木神社には、象(きさ)の小川にかかる屋根付きの橋、こぬれ橋を渡る。 |
象の小川に沿って続く万葉の道は、 吉野千本桜の道に到達する。 |
桜木神社は大己貴命・少彦名命・天武天皇を祀る神社です。創建は大化 (645~650) 年中、今の本殿は
元禄15(1702)年建立とされます。 神社創建の由来は、疱瘡治癒の神様が象に乗って天から降りてきたことだと伝わります。 江戸時代には 疱瘡の神として、紀州徳川家や高取城主をはじめ広く信仰を集めました。 この神社には大海人皇子の伝説が残ります。 壬申の乱の時、 吉野宮にいた大海人皇子が大友皇子に襲わ れそうになりました。 大海人皇子は、 この辺りの桜の影に身を潜め、難を逃れたと伝わります。 また、社前の 「象の小川」には大伴旅人の歌が『万葉集』に残り、神社では江戸時代の歌人が歌を詠むな ど、永く歌人に愛された場所でもありました。 |
桜木神社HP |
神木大杉 樹齢 7~800年 高さ 35~40m 直径 1.7~2.0m 回り 6.5~7m |
み吉野乃 象山の際の 木末には
ここたもさわく 鳥乃声か毛 み吉野の 象山の際の木末には ここだもさわぐ鳥の声かも 【歌の大意】 吉野にある、 象山の山あいの小梢では、 たくさんの鳥が鳴いているなぁ。 【作者】 山部赤人 【揮毫者】 書道家 鹿児島寿蔵 |