吉野宮(吉野離宮)地図

 奈良時代の聖武天皇らが訪れた「吉野宮(吉野離宮)」の大極殿や正殿の可能性も
る大型建物跡が、吉野町の宮滝遺跡で見つかった。

 宮滝遺跡は飛鳥~奈良時代の複数の天皇が訪れた吉野宮の有力候補地とされ、
戦前か
ら調査が続けられてきた。

1930年の最初の調査は、奈良県としても初めての大規模な発掘調査だったのではない
でしょうか」と中東さ
ん。発掘を指揮したのが、後に県立橿原考古学研究所の初代所長
になる末永雅雄氏だった。

 今回、建物跡は吉野川から数点の場所で見つかった。今は木が生い茂り、川が見え

ないが、戦前までは川と対岸の集落まで見渡せたという。

 川沿いに立つと、万葉集にも詠まれた象山(きさやま)がそびえ、眼下には吉野川が
流れる。飛鳥奈良時代には雄大な景色が広がっていただろう。

 宮滝遺跡は史跡公園として整備される予定で、今年度も発掘調査を行う。過去の
調査
で見つかった土器の整理も昨年から再開した。「調査を継続して、遺跡の全容解明
につ
ながれば」と中東さんは昔う。

 次に近くの吉野歴史資料館へ向かった。ここでは宮滝遺跡で見つかった土器や瓦など

を展示している。宮滝遺跡は縄文時代から弥生時代の遺構も見つかっている。豊富な
と川の幸に恵まれ、古代から暮らしやすい場所だったのだろう。

 館内にある吉野離宮の復元図は、大極殿などの宮殿の中枢部を山沿いに配置してい

る。中東さんは「今回、大型建物跡が川沿いで見つかったので、考え直さないといけま
んね」と話した。

 遺跡の周辺には多くの万葉歌碑が建てられている。天皇と一緒に、多くの万葉歌人が

吉野宮を訪れ、歌を詠んだのだ。地元の中荘地区まちづくり協議会が発行している観光

マップには歌碑の場所が詳しく紹介されている。それを頼りに、資料館から約1キロ南の

桜木神社に向かった。境内に山部赤人の歌碑があり、神社のすぐ下を万葉集に歌わ
た「象(きさ)の小川」が流れる。

 神社の由緒によると、大海皇(後の天武天皇)が吉野に身を隠していたとき、桜の木
に身をひそめて、追っ手
をやり過ごしたという伝説がある。マップを手に宮滝遺跡と歌碑
を巡るだけで半日は十
分楽しめそうだ。
   2018-6-1  朝日新聞
(田中祐也)

奈良:宮滝遺跡

 昨年の調査で大型建物跡が確認され、吉野宫(離宮) の所在地との見方が強まった
奈良県吉野町の宮滝
遺跡 (国史跡)で、さらに2棟の奈良時代前半(8世紀前半)の建物
跡がみつか
った。町と県立橿原考古学研究所(橿考研)が13日発表した。

 専門家は、聖武天皇(在位724~749)ら飛鳥~奈良時代の複数の天皇が訪れたとさ
れる吉野宮の全
容解明につながる重要な発見とみている。

 
  2019-7-20  朝日新聞
吉野⇒⇒⇒  芋峠⇒⇒⇒  吉野への道(芋峠越え)⇒⇒⇒ 
飛鳥川の飛石⇒⇒⇒  栢森⇒⇒⇒  吉野宮の謎⇒⇒⇒ 
天武天皇⇒⇒⇒  斉明天皇⇒⇒⇒  遍照と小野小町⇒⇒⇒ 
万葉集 見れど飽かぬ⇒⇒⇒ 吉野の鮎⇒⇒⇒   

 万葉学徒となって、40年近い時が過ぎた。そのなかで、「なるほど」とか、「そうだった
のかぁ」と思った瞬間
が、何度かある。奈良県吉野町の宮滝遺跡(国史跡)の発掘も、
その一つだ。昨年の発
掘調査で、山側にあると考えられていた離宮(吉野宮)が川べり
にあったことがわか
り、激流のなかに宮として描かれる万葉歌の風景は、誇張でもなん
でもないことがわか
ったからだ。

 そして、今回の発掘成果の発表で、また新たな知見が加えられることになった。離宮

の宮殿の並び方が、ほぼ明らかになったのだ。 建物の大きさや並び方は、その建物
群の
性格や役割を表すことはいうまでもない。 今回の調査によって、中心軸を持ち、
左右対
称に大型の建物が並んでいることが明らかになった。 ということは、吉野の宮
は、
平城長岡宮のような、天皇が日常的に政治を行う宮と同じ構造を持っていた
ことが明ら
かになったのである。吉野の宮は、都から遠く離れた景勝の地にあるから、
現在でいう
コテージ風の建物群だと考えていたが、それは誤りであった。

 私は、建物群の配置図の説明を最初に受けた時、こんな声を上げた。「えぇつ、こん

なに本格的な宮殿だったのぉー」と。激流さかまく当時の吉野の川。建物の建設が困難

なその地に、まるで平城宮のような本格的な宮殿が造られた。これこそが、大君すなわ

ち天皇の偉大なる力なのだと万葉歌人たちが、ロ々に歌った理由が、今、ようやくわ
ったような気がした。

 山部赤人(生年未詳~736?)は、わが天皇が政治をなさる吉野の宮は、折り重な
ている山々、その山並みの
緑色が垣根のように見えるところに、それも川に沿った清

らかなところに建っていると述べている。

  やすみしし  わご大君の 高知らす  吉野宮は  たたなづく
  青垣隠(あをがきこも)り 河内そ……(巻六の九二三).

 そして、この長歌はこう歌い収められているのだ。「このすばらしい山々が高々とそ
びえるように、このすばらし
い吉野川が絶えることなく流れ続けるように、この宮に仕
る役人たちは永遠に、吉野
の宮に通い続けるであろう」

と。 「その山の  いやますますに  この川の  絶ゆることなく  ももしきの
 大宮人は
 常に通はむ

 立派な宮殿は、国家のシンボルであり、統治者の威信を示す。 したがって、宮を誉
讃えるということは、最終的には天皇の威光を讃える表現となるのである。しかし、
というものは、その建物群だけで成り立っているものではない。山々や川などの宮の
りの環境も、大切なことはいうまでもない。だから、吉野の宮を歌う歌人たちは、まず

その宮を取り囲む山水を誉め讃えたのである。

 しかし、それだけでは、立派な宮とはいえない。 そこに働く人びとが自分たちから通
てゆきたい、と思うような
宮でなくてはならないはず だ。「大宮人は 常に通はむ」とは、
そういう宮で働く
人びとの志を表現しているのである。それも、そのはずだ。こんなにも
立派な宮殿が

建てられていたのだから――。2019-7-31  朝日新聞  
     上野誠(奈良大学教授)