田中宮跡・田中廃寺跡地図

 日本書紀舒明天皇8年6月(636)の条に「岡本宮に火災あり、
天皇田中宮に居します。」
という記載がみられ百済宮に移るまでの臨時の宮と考えられる。
 近年、馬立伊勢部田中神社の東方の水田で7世紀代の掘立柱建物、
掘立柱の南北塀溝が発見されているが、
田中宮と関連するものかはわかっていない。
また集落の北部に位置する「天王藪(てんのうやぶ)」から7世紀前半の
素弁(そべん)の軒丸瓦(のきまるがわら)が出土しており、
飛鳥時代の寺跡ではないかと考えられ、
田中臣の氏寺という説がかんがえられている。
 法満寺境内には円形に造出された礎石が残る。
天皇の宮⇒⇒⇒












善福寺地図

     
     
 

宝永六年(一七〇九年)大阪淡路町の飛脚問屋、亀屋の養子忠兵衛(新口村出身)は

遊女,梅川となじみになり、ついに公金三百両の封を切って身請けする。罪を犯して

心中するか逃げるかしかない二人は、切羽詰まって大和路をさまよい、三輪の茶屋

で数日を過ごした後、せめて最後は懐かしの親里新口村へと立ち寄ったが、既に

詮索の手が及んでいた。古なじみの家に身をひそめる折、寺参りの父、孫右衛門の

鼻緒が切れる姿を見かけるが、名乗りも叶わず、かけ寄って介抱する梅川を仲介に

父子の情を交わすのみであった。やがて捕まった忠兵衛は大阪で刑場の露と消え

梅川は尼となって忠兵衛の菩提を弔ったとされる。

松門左衛門が伊賀藩家老の日誌に史実として記録が残っている実話をもとに

脚本し「冥途の飛脚」として浄瑠璃で上演されたことにより、新口村の名が一躍有名

となった。今も歌舞伎や浄瑠璃で上演されている悲恋物語の二人を偲び、役者や

歌手をはじめ各地からの参拝が絶えない。この供養碑は忠兵衛屋敷跡にあったものを

明治十六年に善福寺の境内に移したものである。

   
 忠兵衛せんべい  梅川 忠兵衛
冥土の飛脚
新ノ口の段 













市杵島神社地図

     
祭神 市杵島姫命
市杵島姫命(左)、多紀津姫命(中)、多気理姫命(右)の木像の神像を安置。
   
弁財天鎮守 コグリ石
 コグリ石
 詳細不明。推古朝に10m及ぶ儀式用に使用。又は、米川の水路を変える石の説。


















樋口神社地図

 
   
 

祭神 :豊饌炊屋姫命 (推古天皇)

『日本書紀』に推古天皇9年(601年) 5月耳成行宮時、大雨が降り行宮の庭に水が溢れると

ある。 金本朝一氏は『大和三山の道』に木原町の長老の言として神社から東が行宮の跡との

伝があり、天皇という地名があると伝える。こうした伝承から推古天皇の霊を当社に祀ると『橿

原市史』に記されている。

 宮の名⇒














近松門左衛門地図

   
 

国指定史跡近松門左衛門墓

近松門左衛門は、享保九年(一七二四)に七二歳で

没した。近世で最も著名な劇作家の一人である。

近松は、竹本義太夫や二代目義太夫のために百作を

越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために

三十数作の歌舞伎狂言を著している。

「曾根崎心中」「心中天網島」「 女殺油地獄」などの

世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は

今日に通じるところも多く、伝統芸能や演劇・映画

などの中で再創造され、たくさんの人々に感動を

与え続けている。

近松門左衛門墓は、当初近くの法妙寺(現在大東市へ移転)

境内にあったが、昭和五五年(一九八○)財団法人住吉名勝

保存会はじめ市民の方々の協力を得て、当地に移転し、

整備が図られた。

平成七年十月二十八日

大阪市教育委員会



日本のシェイクスピアとも呼はれる文豪近松門左衛門の墓、もと

この地にあった法妙寺の境内にあっだ。
同寺が市外に移転したことに
伴い(この場所に移転し、
近松の遺業を追慕
顕彰する。

昭和五十五年十一月大阪市教育委員会

     


 
国立文楽劇場  地図





















十市城跡地図

 
 

市城跡:竜王山城跡眺望

十市集落北部にある十市氏の居城。 主郭部分の微高が残る。シロ、唐堀、古市場、大門、的

場、下殿口 、中殿ロなどの小字が残る。十市氏は南北朝時代に興福寺大乗院の国民として現れ

る。古来十市県主の旧族との説もあるが出自不明。大和永享の乱以来、筒井党に加わり成長す

る。天文年間(1532年〜1555年)十市遠忠の時、最盛期を迎え竜王山城を築く。遠忠は書詩を
好み文武両道に生き約3000首の詩を残した。





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