法満寺地図
田中廃寺地図
田中宮地図
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法満寺
日本書紀舒明天皇8年6月(636)の条に「岡本宮に火災あり、 天皇田中宮に居します。」 という記載がみられ百済宮に移るまでの臨時の宮と考えられる。 近年、馬立伊勢部田中神社の東方の水田で7世紀代の掘立柱建物、 掘立柱の南北塀溝が発見されているが、 田中宮と関連するものかはわかっていない。 また集落の北部に位置する「天王藪(てんのうやぶ)」から7世紀前半の 素弁(そべん)の軒丸瓦(のきまるがわら)が出土しており、 飛鳥時代の寺跡ではないかと考えられ、 田中臣の氏寺という説がかんがえられている。 法満寺境内には円形に造出された礎石が残る。 |
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天皇の宮⇒⇒⇒ |
ここ法満寺は、古くから田中宮の推定地とされてきました。 田中宮は、舒明天皇が636年(舒明8)に飛鳥岡本宮の焼失後、 や四面にひさしを持つ大型の建物、 回廊状の施設が想定できる 柱穴が確認されています。 出土品には、「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」、「重孤文軒平瓦」や また藤原京の造営に伴い、寺域の西部分が縮小され、藤原京 しかしながら、田中廃寺の伽藍配置や建立当初の状況、 平成29(2017) 年3月 橿原市教育委員会 |
田中廃寺
蘇我氏系田中氏の氏寺として建立。創建は7世紀中頃と推定される。総柱建物、大量の 瓦片、鋳造関連の遺物、単弁蓮華華門瓦等が出土した。 法満寺境内には礎石が残る。舒明天皇十二年(640)に田中宮が百済に遷った後に、 宮があったところに寺院が造られたと考えられている。 |
田中宮
舒明天皇の飛鳥岡本宮は636年に焼失し、田中宮は640年に百済宮までの間の假宮 であった。 田中宮は馬立伊勢部田中神社の付近ではないかといわれている。 |
善福寺(新ノ口)地図
宝永六年(一七〇九年)大阪淡路町の飛脚問屋、亀屋の養子忠兵衛(新口村出身)は
遊女,梅川となじみになり、ついに公金三百両の封を切って身請けする。罪を犯して 心中するか逃げるかしかない二人は、切羽詰まって大和路をさまよい、三輪の茶屋 で数日を過ごした後、せめて最後は懐かしの親里新口村へと立ち寄ったが、既に 詮索の手が及んでいた。古なじみの家に身をひそめる折、寺参りの父、孫右衛門の 鼻緒が切れる姿を見かけるが、名乗りも叶わず、かけ寄って介抱する梅川を仲介に 父子の情を交わすのみであった。やがて捕まった忠兵衛は大阪で刑場の露と消え 梅川は尼となって忠兵衛の菩提を弔ったとされる。 近松門左衛門が伊賀藩家老の日誌に史実として記録が残っている実話をもとに 脚本し「冥途の飛脚」として浄瑠璃で上演されたことにより、新口村の名が一躍有名 となった。今も歌舞伎や浄瑠璃で上演されている悲恋物語の二人を偲び、役者や 歌手をはじめ各地からの参拝が絶えない。この供養碑は忠兵衛屋敷跡にあったものを 明治十六年に善福寺の境内に移したものである。 |
忠兵衛せんべい | 梅川 忠兵衛 冥土の飛脚 新ノ口の段 近松門左衛門作 |
鏑木清方「薄雪」より 冥途の飛脚 大門口の薄雪も今降る雪も 変わらねど変わり果てたる我身の行方と 梅川と忠兵衛は心中する。 |
市杵島神社地図
祭神 市杵島姫命 市杵島姫命(左)、多紀津姫命(中)、多気理姫命(右)の木像の神像を安置。 |
弁財天鎮守 | コグリ石 |
コグリ石 詳細不明。推古朝に10m及ぶ儀式用に使用。又は、米川の水路を変える石の説。 |
樋口神社地図
祭神 :豊饌炊屋姫命 (推古天皇) 『日本書紀』に推古天皇9年(601年) 5月耳成行宮時、大雨が降り行宮の庭に水が溢れると ある。 金本朝一氏は『大和三山の道』に木原町の長老の言として神社から東が行宮の跡との 伝があり、天皇という地名があると伝える。こうした伝承から推古天皇の霊を当社に祀ると『橿 原市史』に記されている。 宮の名⇒ |
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塚口
廣済寺内にある近松門左衛門の墓。近松門左衛門は廣済寺の再建に尽力した。 |
近松公園内に近松記念館がある。近松門左衛門像は記念館近くに設置されている。 | ||
塚口 近松門左衛門⇒ |
近松門左衛門
近松門左衛門は承応2年(1653)越前藩士 江戸時代に活躍した劇作家。東洋の「シェークスピア」 とも呼ばれる。武士の家に生まれたが、20代で芝居 の世界に飛び込んだ。大阪で発展した町人社会が舞 台の「世話物」など、庶民が主人公という芝居は当時 は珍しく話題を詠んだ。 |
杉森信義の次男として福井に生れ、幼名を次郎 吉、長じて信盛、?林子と号した。 のち吉江に移り、父が仕官を辞するとともに京都 へ上る。京都では--条恵観などの公喞に仕え、や がて浄瑠璃、歌舞伎作者として活躍、宇治嘉太 夫や竹本義太夫に浄瑠璃を また坂田藤十郎に 歌舞伎狂言を提供した宝永3年(1706)以降は 大阪に移住して、もっぱら竹本義太夫(初代・二 代)のために浄瑠璃を制作し、尼崎にもしばしば 来遊した。享保9年(1724) 11月22日天満に没 した。尼崎広済寺と次いで大阪谷町法妙寺に葬 られた。 作品は100篇を超えて、名作に富み、なかでも 「曽根崎心中」「冥途 脚」「国性爺合戦」「心 中天の網島」などは傑作の誉れが高く、世界に誇 るべき日本最高の劇詩人である。 |
梅川の像
JR尼崎駅より北約2kmに位置する広済寺に眠る江戸時代の劇作家・近松門左衛門の 制作にあたっては、文楽人形遣いで重要無形文化財保持者(人間国宝)の吉田文雀さん 平成11年11月11日 |
近松門左衛門の墓 | 廣済寺 |
北野恒富「道行」より 人形浄瑠璃「心中天網島」を題材とした |
国指定史跡近松門左衛門墓 近松門左衛門は、享保九年(一七二四)に七二歳で 没した。近世で最も著名な劇作家の一人である。 近松は、竹本義太夫や二代目義太夫のために百作を 越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために 三十数作の歌舞伎狂言を著している。 「曾根崎心中」「心中天網島」「 女殺油地獄」などの 世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は 今日に通じるところも多く、伝統芸能や演劇・映画 などの中で再創造され、たくさんの人々に感動を 与え続けている。 近松門左衛門墓は、当初近くの法妙寺(現在大東市へ移転) 境内にあったが、昭和五五年(一九八○)財団法人住吉名勝 保存会はじめ市民の方々の協力を得て、当地に移転し、 整備が図られた。 平成七年十月二十八日 大阪市教育委員会 日本のシェイクスピアとも呼はれる文豪近松門左衛門の墓、もと、 この地にあった法妙寺の境内にあった。 昭和五十五年十一月大阪市教育委員会 |
近松門左衛門墓(大阪市中央区谷町) 墓碑には近松夫婦の法名が併記されている |
妙法寺が昭和42年に地下鉄谷町線の工事のため大阪府大東市に移転、 お墓だけがお寺跡付近にひっそりと残っている。移転した妙法寺は複製し た墓を設置した。 |
国立文楽劇場 地図 |
十市城跡地図
市城跡:竜王山城跡眺望 十市集落北部にある十市氏の居城。 主郭部分の微高が残る。シロ、唐堀、古市場、大門、的 場、下殿口 、中殿ロなどの小字が残る。十市氏は南北朝時代に興福寺大乗院の国民として現れ る。古来十市県主の旧族との説もあるが出自不明。大和永享の乱以来、筒井党に加わり成長す る。天文年間(1532年〜1555年)十市遠忠の時、最盛期を迎え竜王山城を築く。遠忠は書詩を |
1. JR 福知山線の塚口駅から 15分くらい歩いて行く。 2. 阪急園田駅南口の阪神バス 2番乗り場で乗車する バス11番で 近松公園バス停で下車 四、五分歩く。 3. 阪急塚口駅からも連絡バスがある様子。 |
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