第33代 推古天皇(すいこ) (地図)
父…欽明天皇(第三皇女) 母…蘇我堅塩媛 誕生…554年(欽明天皇15年) 御名・異称…額田部(ぬかたべ)・豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫尊 皇后…━━ 立太子…━━ 即位…592年(祟峻天皇5年)12.8 在位年数…36年 崩御…628年(推古天皇36年)3.7 年令…75才 皇居…豊浦宮(とゆら) 年号…━━ ○豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫尊 豊:敬称、ゆたか、みけ;食物 他にミカ、ケ、ケツ、ウカ 熊野大社 家津御子(ケツ) ○日本書紀は即位の翌年が元年(593) ○桜井から飛鳥に遷り飛鳥時代の始まり。 ○敏逹天皇が崩御し、次いで用明天皇が崩御、祟峻天皇が暗殺されると、周囲から皇位を継承するよう求められた。皇后は再三辞退したが、群臣らの上奏も三度に及び、ついに即位した。天皇(すめらみこと)の爾印(みしるし)を奉る。鏡と剣。この時代は勾玉はなかった。 ○推古天皇は日本における最初の女帝である。(飯豊皇女は日本書紀では天皇になっていない。)実際の政治は、聖徳太子が行い、日本の歴史の中で、最も輝かしい時代であったと評される。冠位12階、憲法17条の制定のほか、遣隋使の派遣、「天皇記」、「国記」など国史の編纂を成し遂げた。 ○蘇我馬子も健在で、法興寺(飛鳥寺)の建設に意欲を燃やし、塔の礎中に仏舎利を置き刹柱を建て完成した。 ○新羅よりカササギ・クジャク、百済からラクダ・ロバ・羊・白雉、越より白鹿の献上があり、さらに飾馬のことも見え、装飾馬具が最高潮に達していた。また、紙と墨を日本で初めて作り、碾磑(みずうす)(水力利用の臼)を作ったことも見え、自主技術の進歩も認められる。 陵墓…磯長山田陵(しながやまだのみささぎ)(山田高塚古墳) 方墳 所在地…大阪府南河内郡太子町大字山田 ○御陵は高塚と称される。天皇の遺詔に「此年、五穀登らず、百姓大きに飢う。其れ朕が為に陵を興てて葬ること勿れ。便に竹田皇子の陵に葬るべし」といい、御陵の造営をいましめている。 ○「古事記」には「帝陵初め大野岡上に在り、後、磯長の大陵に遷す」とあり、改葬されたらしい。 ○現陵は南面する一辺75mの三段築成の方墳である。 やや東西に長い長方形を示す。「諸陵説」に羨道の前面崩壊し、羨門をふさぐ大石をのけて、石室に入ると広さが一丈5.6尺の広さの玄室があり、上下四方は盤石(切石)で、二つの石棺が安置されており、右は推古天皇、左は竹田皇子であると記すことは重要である。宮内庁陵墓図を見ると、南側に墳丘崩壊部分が認められる。さらに平面形が長方形であることから、一墳二石室の可能性も考えられる。 ○飛鳥時代は、592年の推古天皇即位から、710年元明天皇の平城京遷都までの約100年間をいう。 |
日本書紀によえば、天皇は飢餓で百姓たちが飢えているときなので、自らのために陵を造らず、竹田皇子の墓に葬るようにとの遺言をしたと言い、先に亡くなっていた子の竹田皇子の墓に追葬したと記録されている。書紀はその場所について記さないが(植山古墳⇒⇒⇒) 古事記には御陵は大野岡にあり、後に科長大陵に遷したとしている。 現在、宮内庁が管理する推古天皇陵は、太子町山田に存在する。古墳の築造時期や規模の点から見ても、科長大陵の名にふさわしい、立派な古墳であると言え、推古天皇陵として大過ないものと云われている。 |