飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)地図
(伝飛鳥板蓋宮跡
・でんあすかいたぶきのみやあと)

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石敷井戸
 もともとこの区域に宮らしき遺跡があると言われ、伝承により板蓋宮の跡とされてきた。
国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡として登録されている。(飛鳥宮跡に名称変更を答申)
 現在地表にあるのは飛鳥浄御原宮の復元である。
 飛鳥京跡といえばこの遺構を指すことが一般的であり、昭和38年にこの大井戸の発見
された板蓋宮伝承地は、飛鳥の中心地である。
 背景は甘樫丘。
 伝飛鳥板蓋宮跡が飛鳥宮跡に変わる。飛鳥時代に四つの宮殿が営まれた複合遺跡
だったことが判明している。一つの宮殿名では、訪れた人が混乱する場合があった。
 
 奈良県立橿原考古学研究所 史跡飛鳥宮跡第189次調査 現地説明会資料より
甘樫丘  水落遺跡  飛鳥寺  飛鳥池遺跡 
弥勒石  飛鳥京苑池  酒船石遺跡  川原寺 
岡寺  橘寺  エビノコ槨  小山田遺跡 
亀石       
 
 宮殿遺構が重複している。上層B期は天武・持統朝の飛鳥浄御原宮、上層A期は斉明朝の後飛鳥岡本宮であることがほぼ確定し、
中層は皇極・斉明朝の飛鳥板蓋宮である可能性が大きい。
 建物の造営方位を正方形に向けた最初の王宮である。この王宮は乙巳の変、大化元年(645)の後、難波宮遷都の間も維持管理された。
 下層が舒明朝の飛鳥岡本宮とみられる可能性がある。
 舒明天皇の飛鳥岡本宮に始まり歴代王宮が同じ場所に営まれていた。朱鳥8年(694)持統天皇の時代に藤原京に遷都するまで、飛鳥が政治や文化の地であった。律令制に基づく中央集権国家の基礎が作られた。 
舒明天皇と蘇我氏出身の法提郎女(ほていのいらつめ)との間の皇子古人大兄(ふるひとのおおえ)を次の皇位につけようと目論む蘇我入鹿によって、
聖徳太子一族の斑鳩宮が襲撃され、山背大兄王(やましろのおおえのみこ)らは自害に追い込まれた。
その報で戦慄したのが、中大兄皇子(舒明天皇と皇極女帝との嫡子)であった。入鹿は次に邪魔になるのが自分に違いない。
 
「飛鳥・藤原」の紹介動画⇒
明日香村
 
 

 7世紀後半から藤原宮に遷るまでの時期のもので飛鳥浄御原宮であった可能性が高い。
この宮の中で、長方形に塀で囲い多くの殿舎が配置された一画を内郭と呼んでいる。
 この内郭の南面に中央に門があり、その北側に東西7間・南北4間の掘立柱建物があった。
復元整備したこの場所は、内郭の東南の隅にあたり、
ここでは周囲に石敷を回らした南北10間・東西2間の掘立柱建物が2棟並んで検出された。
 西南隅にも同様な建物があったと推定でき、宮の中の重要な建物であったと見られる。
地図
 飛鳥京跡で、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)の正殿跡の全体が発掘され、東西23.5m、南北12.4m
の高床建物だった。飛鳥時代最大級の建物で、渡り廊下でつながった別棟、池を望む縁側がついた建物跡
も出土した。
 采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらにふく
志貴皇子 巻1-51
皇極天皇 蘇我入鹿 蘇我入鹿 甘樫丘 耳成山 香具山
 左の丘は、甘樫丘、真中の尖がった山は耳成山、右の山はおだやかな香具山
 唐の高句麗への侵攻を受けて、朝鮮半島における緊張は一気に高まった。周辺諸国で中央集権を確立しようとする
動きが活発化する中、日本でも蘇我氏の専横を阻止すべく中大兄皇子と中臣鎌足らによってクーデターが起こされた。
 皇極四年(645)6月12日、朝鮮半島の国々からの貢物を天皇に献上する儀式が飛鳥板蓋宮で行われた。
儀式に参加していた蘇我入鹿がここ板蓋宮で暗殺された。この政変は中大兄皇子、中臣鎌足らが中心となって行ったもので、
皇極天皇は退位し、軽皇子が天皇(孝徳天皇)となり、国政の改革が進められた。
 六世紀末から宮室が営まれてきた飛鳥の地を離れて、難波遷都が行われた。
 中大兄皇子と藤原鎌足による蘇我入鹿さつ害場面「乙巳(いっし)の変」⇒⇒⇒
宮名 天皇 宮の始まり 宮の終わり
飛鳥宮Ⅰ期遺構 飛鳥岡本宮
(あすかのおかもとのみや)
舒明天皇 舒明2年(630) 舒明8年(636) 舒明8年(636)焼失で田中宮に遷る。舒明640百済宮に遷る。
飛鳥宮Ⅱ期遺構 飛鳥板蓋宮
(あすかのいたぶきのみや)
皇極天皇 皇極2年(643) 大化元年(645) 皇極642小墾田宮、643飛鳥板蓋宮
建物の造営方位を正方位に向けた最初の王宮。
(Ⅰ期では地形に合わせ約20°西に向いていた)
宮殿は南北198m以上、東西193mと推定される。
乙巳の変(645)で、大化元年(645)孝徳天皇難波遷都(645~655)、
遷都後も維持管理された。
飛鳥宮Ⅲ期-A遺構 後飛鳥岡本宮
(のちのあすかのおかもとのみや)
斉明天皇 斉明2年(656) 天智6年(667) 斉明元年(655)飛鳥板蓋宮で即位、飛鳥板蓋宮が火災焼失、川原宮655~656
翌年同じ場所に後飛鳥岡本宮を造営する。
酒船石遺跡・亀形石槽など導水施設、漏剋と推定される水落遺跡、
飛鳥京苑池遺構などの造営。王権による時間の支配がはじまる。
天智6年(667)天智天皇が近江大津遷都後も維持管理されていた。
飛鳥宮Ⅲ期-B遺構 飛鳥浄御原宮
(あすかのきよみはらのみや)
天武天皇
持統天皇
天武2年(673) 朱鳥8年(694) 任申の乱(672)に勝利した大海人皇子(天武天皇)は、都を近江から
飛鳥に遷し、翌年この宮に即位した。宮は、甘樫丘東方の
旧飛鳥小学校付近にあったとされたが、その後の調査により、
伝飛鳥板蓋宮跡の上層(B)遺構が飛鳥浄御原宮にあたる可能性が有力視されている。
大極殿を造営して飛鳥浄御原宮(命名は朱鳥元年686)とした。
後飛鳥岡本宮とほとんど変わらず。
朱鳥8年(694)持統天皇藤原京に遷都。          飛鳥の諸宮のうつりかわり⇒
 史跡飛鳥宮跡は、飛鳥時代の宮殿遺跡です。これまでの調査・研究で、3時期の宮殿遺構が重複して存在することが判明しています。Ⅰ期遺構が舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期遺構が皇極天皇の飛鳥板蓋宮、Ⅲ期遺構のうち Ⅲ-A期が斉明天皇•天智天皇の後飛鳥岡本宮ⅢーB期が天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮と考えられています。そのうち、飛鳥時代後半にあたるⅢ期遺構の様相が、最も明らかとなっています。
飛鳥京跡の発掘調査は、昭和34 (1959)年度の奈良国立文化財研究所と奈良県による予備調査以後、奈良県立福原考古学研究所が主体となり、継続的に実施しています。
 奈良県立橿原考古学研究所 史跡飛鳥宮跡第189次調査 現地説明会資料より
 
 飛鳥浄御原宮 
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館展示より

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大和の魅力は、言うまでもなく飛鳥時代から奈良時代へかけての古い歴史の舞台で

あり、その歴史のかけらが到るところに散らばっているというところにある。寺院や

塔や、寺院の建物の中に仕舞われている夥しい数の彫刻類ばかりではない。どの山も、

どの丘も、どの川も、それぞれに歴史の山であり、丘であり、川である。

  (井上靖「大和路たのし」『井上靖全集』新潮社



はたなかの かれたるしばに

たつひとの うごくともなし

ものもふらしも

  會津八一 








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