金峯山寺(きんぷせんじ)地図

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金峯山寺  
蔵王堂(国宝)
奈良・世界遺産⇒⇒⇒
 16世紀末の巨大な木造建築。内陣後方の造り付けの
逗子に本尊の蔵王権化3体が安置されている。
 古代より、吉野山から大峯山山上ヶ岳にかけての一帯は
、世に知られた聖域で、金峯山(きんぷせん)と呼ばれていた。
金峯山で役行者が、修験道の本尊・金剛蔵王大権現を感得し、
姿を桜に刻んで、山上ヶ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山
(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀したのが金峯山寺の始まりと伝え
られている。
 熊野に至る修行道、大峯奥駈け道縦走の北の起点でもある。
 
左から弥勒菩薩(5.9m)釈迦如来(7.3m)千手観音菩薩(6.1m)
 檜の寄せ木造(重文)
平城遷都千三百年記念金剛蔵王権現ご開帳ポスターより。
 
   
 国宝仁王門修理勧進ポスターより
 青黒い大きな顔の巨像が目をつり上げ、歯をむき出し全身を震わせて憤っている。右手を振り上げ、右足を
高く上げ、左足で全身を支える。右足を上げるのは蔵王権現独特の姿勢である。
 権現:ごんげん、権には仮という意味があり、権現は仏・菩薩が仮に神となり現れることを言う。インドの仏が、人々
の救済のために方便として、日本では仮に神となり化現(けげん)したとする神仏混合思想が元になっている。 
 東大寺の修二会で読み上げられる神名帳のトップにある。金峯大菩薩つまり金峯山寺の蔵王権現。
 詳しく⇒
 
 南朝妙法殿
   
蔵王堂(国宝)
 金峯山寺の本堂で、三尊(弥勒菩薩釈迦如来千手観音菩薩・重文)の蔵王権現が本尊である。
 三尊が過去・現在・未来の三世にわたって衆生を救済するため仮の姿となり、悪魔降伏の忿怒の相で出現されたのが、
この蔵王権現である。
 蔵王権現というのは、日本独特の、そして修験道のみで信仰せられるもので、仏でも神でもない。
その本地仏(神の本体と信じられた仏)は、過去仏の釈迦を中尊とし、現世仏の観音、来世仏の弥勒を脇侍とする。
 日本古来の山岳信仰と、中国の天師道に密教が結合してできた修験宗の本尊なのである。
中尊が高さ7.82m、両脇侍が6.76mの巨大な忿怒形(ふんぬぎょう)である。
この本尊が、古来桜の木で造られているといわれるが、桜に木でない。。
 安土桃山時代を代表する宗印の作。
 現在の建物は高さ34m、桁行7間、梁間8間の重層入母屋造り桧皮葺きで、36m四方の安土桃山時代に
建立された大伽藍である。
 幾度も焼失した後、康正元年(1455)に再建され、木造古建築では東大寺大仏殿(高さ約48m)に次ぐ規模と言われている。
 7月7日伝統の「蓮華絵(れんげえ)・蛙飛び行事」がある。
 蛙飛びは、修験道の祖・役行者ゆかりの捨篠池(大和高田)の蓮を供える法要後、蔵王堂前の特設舞台で披露される。
 仏法を侮った後に改心した男をカエルの姿に変えて救い出し、法力で人間に戻したという故事を、着ぐるみのカエルが
再現される。
     
近鉄吉野駅 駅前の店屋 吉野熊野国立公園の碑
 吉野山から山上ケ岳(大峰山)に至る金峯山は万葉の昔より聖地として知られ、
多くの修行者や貴族が足跡を印している。白鳳年間(7世紀末)修験道の開祖・役行者
(えんのぎょうじゃ)がこの金峯山を道場として修行され、蔵王権現を感得し、
その姿を桜の木で刻み、お堂を建てて祀られた。
これが蔵王堂であり、金峯山寺の草創である。
 以来、金峯山は修験道の根本道場として広く万人に尊崇され、
多くの修行者が宗派を超えて入山修行している。
また、役行者が蔵王権現の像を桜の木で刻んだことから、桜が保護・献木されて吉野山が桜の
名所となっている。
 現在の金峯山寺は金峯山修験本宗の総本山である。
黒門
 金峯山寺というのは吉野山から大峰山に至る峰続きを指し、
修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねていた。
それらの総門がこの黒門で、金峯山寺の総門で、吉野一山の総門である。
 この様式の門を高麗門といい、城郭によく用いられている。
 公家大名といえどもこの門からは、
槍を伏せ馬をおりて通行したという格式を誇っていた。
   
銅(かね)の鳥居(重文)
 発心門とも呼ばれ、ここで修行の道に入ることを決心する。
俗世界から浄土への入口とされる。
 人間は発心し、修行を重ねて、等覚(とうかく)に達し、さらに
精進すると、妙覚(みょうかく)に達して悟りをひらくことができる。
 この山には、発心、修行、等覚、妙覚の四門があり、等覚、妙覚は
金峰山の山上に、発心、修行は山下(さんげ)にあった。
山上は、いまでは山上ケ獄といい、蔵王堂を中心とすところは山下なのである。
 昔、吉野山の周辺は「金の御嶽(みたけ)」と呼ばれていた。東大寺の大仏造立
時、聖武天皇は、この吉野山の金を得られるよう蔵王権現に祈らせたが、「これは
56億7千万年後に弥勒菩薩が現れる時のためのもの」と権現に断られる。
 後に、東大寺から金峯山寺に銅が贈られたようで、
金峯山寺の発心門ー「銅の鳥居」は、大仏造立の時に余った銅でつくられたと伝え
られている。
 役行者から理源大師をへて宗教として完成した修験道は、その持つ神秘的な
呪術信仰が、平安時代の貴族の要求と合致して、白河法皇は山上に1回、山下に
3回行幸した。
 大峰山、山上ヶ嶽、金峰山と、一連の山岳信仰の道場が完成し、花の吉野は
、山伏のメッカとして、西の洞川(どろがわ)とともに登山口となった。
 広大な所領と強い信仰を得、やがて、吉野僧兵が発生し、一大軍事力の拠点
となっていった。奈良興福寺や、多武峰妙楽寺と似ている。
 軍事力を期待して、鎌倉時代はじめに、源義経がかくまわれた。また、後醍醐天皇
は、この吉野大衆をたのんで、ここに入った。
 高さ8mのこの鳥居は東大寺大仏で使ったあまりの銅で造ったと伝えられる。
東大寺大仏は三回鋳造し直しており、この鳥居ができたのは三回目の
元禄年間の改鋳以後、正徳元年(1710)のものである。
 吉野では、東大寺の鐘を奈良太郎、高野山の鐘を高野二郎、金峰山寺が
所蔵する鐘(重文)を吉野三郎として親しまれている。
金峯山寺仁王門(二王門・国宝)
   
 金剛力士吽形  金剛力士阿形
  奈良国立博物館 2022−2−24

金剛力士立像 重要文化財 康成作

 南北朝時代 延元四年(1339)

特別公開重要文化財金剛力士立像

像高 [阿形] 五〇五・八cm[吽形] 五〇六・二cm木造彩色
南北朝時代 延元四年(一三三九)

 吉野郡吉野町に位置する金峯山寺(金峯山修験本宗の総
本山)の仁王門(国宝)に安置される金剛力士像。 仁王門は
平成三十年(二〇一八) 度より大規模な修理が開始され、

これと並行して金剛力士像も翌年度から二か年をかけて、
公益財団法人美術院により彩色や漆下地の剥落止(はくらく)
め、矧目(はぎめ)など変色箇所の修整、足元や台座の材質
強化などを主とする保存修理が実施された。

 像内の銘文により、南北朝時代の延元 三年(一三三八)から
翌年にかけて、大仏師康成により造られたことがわかる。 見

上げるばかりの巨像で、劇的な忿怒相と全身にみなぎる力動感
は圧巻であり、 鎌倉時代の金剛力士像にみる颯爽(さっそう)と
した姿を基本としつつ、丈六の巨像を破綻なくまとめあげた点に
康成の優れた技量がうかがえる。 建仁三年(一二〇三)に運慶・

快慶らが造立した奈良・東大寺南大門像に次ぐ大作として、また
当代を代表する金剛力士像としてもきわめて高い価値を有して
いる。

 仁王門は重層入母屋造りで、3間1戸、本瓦 葺の楼門です。この門は金峯山寺の北門で、

棟の高さは20.3m、桁行12.3m、梁間6.9mのわが国屈指の山門といわれています。現在

の建物は上層が康正年間(1455〜1457)、下層が南北朝時代の建造と考えられています。

身の丈5.3mの仁王像には、大仏師・康成(こうせい)によって造られた墨書銘があります。

 
 
 四本桜
元弘3年2月3日(1333)大塔宮護良親王
が北条勢に攻められて、吉野落城を覚悟
して最後の酒宴をされた所。
金峯山寺⇒⇒⇒ 
   
 観音堂  南朝妙法殿、吉野朝宮址
     
 天満宮  愛染堂及び愛染明王 
南朝妙法殿 
 後醍醐天皇の行宮となった実城寺(金輪王寺)跡に建立されており、南朝四天皇(後醍醐・後村上長慶後亀山)並びに忠臣の霊を祀る。
 本尊釈迦如来像は重文。
2月3日
 節分の日に、星供秘法を修して、その年の天下泰平、除災招福などを祈祷する。また、役行者の説話に由来して鬼の調伏式を行う。
 鬼たちは堂内で山伏の読経を妨害するなど傍若無人に振る舞う。山伏らが「福は内、鬼も内」と豆をまくと、鬼たちはひれ伏し、改心する。
 

 また、全国から追い出された鬼を「福は内、鬼も内」と蔵王堂に招き入れ、修験者の法力でもって、改心させ仏道に帰依させる儀式。
 蔵王堂の中で傍若無人にふるまい、鬼踊りをしていた赤青黒の径匹の鬼たちは、修験者ら50人から一斉に豆を投げつけられると、
蔵王権現の功徳と法力にひれ伏す。開祖役行者が鬼を改心させて弟子にした故事にちなむ。
4月11日・12日
 本尊蔵王権現に対し、ご神木である山桜の満開を報告しお供えする法会。俗に花供会式(花供懺法会・はなくせんぽうえ)と呼ばれる法要は、
奴行列を先頭に鬼衆や稚児、山伏、僧侶、大名駕籠と続く10万石の格式と伝えられる行列。
7月7日
 役行者が産湯を使われたと伝える、大和高田市奥田・弁天池の蓮の花採取し、蔵王権現並びに一山緒尊にお供えする法会。
翌8日には本堂の蔵王権現に蓮華奉献修行も行われる。また、大きな蛙が修験大衆の法力により、人間にもどる奇祭、蛙飛び行事も行われる。
蓮華会(れんげえ)・蛙飛び行事)
 吉野〜熊野を結ぶ修験の聖地・大峯山系を縫う延長170kmの大峯奥駈道(おおみねおくがけどう)の入口であり、終点でもある。
明治政府の修験道廃止で廃寺になったが、まもなく天台系の修験の寺として復活。戦後、金峯山修験本宗として独立した。
 役行者1300年遠忌(2000年)や一帯の世界遺産登録(2004年)を機に、真言宗醍醐派(当山派、総本山・醍醐寺)や本山修験宗(本山派、
総本山・聖護院)と合同の活動も増えた。
 み吉野の山べに咲けるさくら花雪かとのぞみあやまたれける  紀友則
  この歌で、吉野の桜が知られだした。
 敷島の大和心を人とわば朝日に匂う山桜花  本居宣長
  桜の花は大和心、すなわち日本精神の象徴だと主張した。
    動画    吉野山 桜⇒⇒⇒ 
西行庵 吉野⇒⇒⇒  
吉野水分神社⇒⇒⇒
吉野 東南院⇒⇒⇒ 
金峯山寺蔵王堂⇒⇒⇒ 
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修験道
 金峯山寺宗務総長 田中利典氏より

 修験道は一言で言えば、山の宗教、山伏の宗教です。難しく言えば日本古来の山岳信仰に神道や外来の仏教、道教、陰陽道などが
混淆(こんこう)して成立した日本固有の民俗宗教と言えます。
 山を歩く、神や仏に礼拝する、滝にうたれ、瞑想する、これ全てが山伏の修行であり、体を使った実践修行です。実修実績の道が修験道。
理屈ではなく五体を通して実際の感覚を体得し、それによって心を高めて覚(さと)りを目指す宗教なのです。
 吉野から熊野にかけて紀伊半島の中心を背骨のように貫くのが霊峰大峯山脈。修験道の開祖・役行者によって開かれた最高にして
最大の根本道場とされています。
 大峯山山上ケ岳は今も女人禁制の霊山として知られています。その一帯を含む、北端の吉野山から南端の熊野本宮に至るまで1500m級
の山々が続く山脈を尊称して大峯山と呼称します。修験道の聖地中の聖地です。
 また、吉野山から山上ケ岳に至る山々を金峯山と呼びます。
 吉野金峯山は役行者が修験道独特のご本尊金剛蔵王権現を山上ケ岳で祈りだされたという伝承によって、修験道発祥の地として山伏修行
の根本道場となりました。
 その修験道は明治初期に徹底的な弾圧を受けます。以後、徐々に復興はしたものの、いまだ宗教史の中で異端のように扱われるのが
とても残念です。私は、文明社会が行き詰まりを見せている現代こそ、自然を畏れ敬い、肉体を使って心を整える修験道という宗教の出番
だと考えています。
 吉野大峯を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産に登録されました。これが私が提唱する「修験道ルネサンス」の幕開けだと
思っています。