1、山の邊の道
山の辺の道 道標(1)⇒⇒⇒ | ||
桧原神社から山の辺の道 道標(2)⇒⇒⇒ | ||
全動画⇒⇒⇒ | 天理から桜井の順⇒⇒⇒ |
金屋の石仏と平等寺間にある小林秀雄筆による碑。 地図 |
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山の辺の道の起点は、三輪山の西南麓。 古代には、海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた) とも称されたところである。 ここは道と道が交わる要衝の地で、各種施設があり、 定期的に市が立ってにぎわった。 この場所はまた、大和川本流(初瀬川) の水運を利用する河港があったから、水陸交通の要衝であった。 |
盆地を南北に走る三本の道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)の他に、山に沿うようにして「山の辺の道」がある。 (古代にあって、大和盆地が湿地、湿田であったとき、春日断層線に沿った標高70m前後の山麓地帯を磯城から北に走る道) 海柘榴市跡(つばいち)あたりから天理市布留を経て平城山(ならやま)に至る。 更にいどみ川(泉川・木津川)、祝園(ほうその)・樟葉(くずは)、淀川、難波津に出て瀬戸内海から大陸に出る。 あるいは、琵琶湖から敦賀日本海に出る。 この案内の石碑は桜井駅を降り、北に向って歩いてすぐ見つかる。(写真左) |
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大和川(初瀬川)に掛る馬井寺橋を渡ると、古道の雰囲気が味わえる道となる。(写真中) 散策コースとして、これだけ贅沢な道はないかも知れぬ。 万葉の歌で織りなされた道を歩いて行くようなものである。 ー井上靖ー |
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上の碑と同じ。地図(写真右) 山の辺の道は、大和平野の東側の山麓にある。 鹿道や兎道のようなものでなく、必要によって人の踏みかためた特定の道である。 道に向って、四世紀ごろの大型前方後円墳がいくつか造られているし、 石上神宮、大神神社、大和神社、穴師坐兵主神社のような古い神社が残っている。 また、道に沿って、大市、上市、下市、海柘榴市、丹波市、市(櫟)の本、など、市のつく地名がならんでいる。 |
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古代にあって豪族物部氏、和爾氏、春日氏、大神氏(おおみわ)、柿本氏、大和氏(やまと)、秦氏(はた)等の大部族の本拠があり、 その部族と部族をつないで自然にできたのが、山の辺の道であるといえる。 山の辺の道は、古代王権時代における大王(天皇)支配の部族が点在するところで、その部族支配は祭祀権の統制という形で行われていたので、 大神神社(大神氏)、兵主神社(ひょうず・秦氏)、大和神社(おおやまと・大和氏)、石上神宮(いそのかみ・物部氏)、等の古社は、それぞれの各部族 の氏神であったと同時に、天皇の命によって祭祀の行われる神社でもあった。 山の辺の道は古来の往来、物資文化の交流に大きな役割を果たしてきた。 |
山の辺の道には多くの物語があり歌がある。 歴史の宝庫である。 |
玄賓庵から桧原神社間の杉木立にある碑。 地図 |
小林秀雄筆による「山の邊の道」の碑は3基ある。 残り1基は穴師から玄賓庵間の集落にあるミカン畑にある。⇒⇒⇒ |
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山の辺の道は、条里制に規制されない自由な道で、他に山田道、太子道などがある。これらに対して 条里・方格地割りに規制された直線道路として、下ツ道、中ツ道、上ツ道、横大路、大坂道、竜田道 などがある。 |
記紀に記載されている山の辺の道 | |
古事記 中巻 崇神天皇 | 天皇、御歳壹佰陸拾捌歳(ももぢあまりむそじやつ・百六十八)、戊寅(つちのえのとら)の年の十二月(しわす)に崩(かむあがり)りたまいき。御陵は、山の辺の道の勾(まがり)の岡(をか)の上(へ)にあり。 |
古事記 中巻 景行天皇 | 壹佰参拾漆歳(ももちまりみそななつ・百七十三))、御陵は山の辺の道の上にあり。 |
日本書紀 武烈天皇即位前紀 | 石(いす)の上(かみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いい)さへ盛り 玉盌(たまもひ)に 水さへ盛り 泣き沽(そほ)ち行(ゆ)くも 影媛(かげひめ)あはれ ―石上から奈良山までの、南から北へと歩いて行く道行き送葬歌― 石上の布留を過ぎて、高橋を過ぎて、大宅を過ぎて、春日を過ぎて、小佐保を過ぎて、(亡くなった人に供えるため)美しい食器には飯まで盛り、美しい椀に水まで盛って、泣き濡れてゆく影媛はああ、(全く可哀そうだ) 影媛⇒⇒⇒ |