下ツ道(しもつみち)地図1 ⇒ 地図2
中ツ道(なかつみち)、地図1 ⇒ 地図2
上ツ道(かみつみち)、地図

 奈良盆地の道路は方位に合わせられたものが多い。これは盆地内に条理が施行されたためである。このような条理の基準となっているのが「下ツ道」で、
約2.1kmの等間隔で「中ツ道」「上ツ道」が奈良盆地を南北に貫いている。そして、これらと直交する東西方向の道路が「横大路」である。
 日本書紀推古21年(613)の記事には「難波より京に至るまで大道を置く」とあり、難波から竹内峠を越えて奈良盆地南部を横断する横大路は、
この時に設置したものとみられる。
 聖徳太子は推古9年(601)に斑鳩に宮を造営し、これを契機に飛鳥と斑鳩を結ぶ道として太子道(筋違道)を整備したと考えられる。
 田原本町に所在する保津・宮古遺跡の発掘調査では、太子道西側溝が検出されている。
下ツ道 中ッ道 上ッ道⇒⇒⇒
丸山古墳⇒⇒⇒
太子道(筋違道)⇒⇒⇒
横大路⇒⇒⇒
竹ノ内街道⇒⇒⇒
奈良盆地の古道と都⇒⇒⇒
橿原考古学研究所付属博物館⇒
下ツ道
 横大路に沿って東にたどり国道24号線を横切り、さらに200mほどすすむと
南北方向の道に出会う。この道が下つ道である。下つ道の基点は、
丸山古墳(見瀬丸山古墳)の北側の外濠中央から始まり、
北は平城京の朱雀門にいたるまで23kmにおよび、
奈良盆地を南北に縦断した古代第一の基幹道路であった。
また、横大路と同様に京造営の基準計画線としても重要な位置を占めている。
下つ道は中世ごろから「中街道」とよばれるようになり、
各時代を通してその賑わいをみせ、八木町周辺の道沿いには
江戸時代の町屋がいまも軒を連ねている。
幅員は現在4〜5mと狭くなっている。
飛鳥川より南は、吉野にぬける国道169号線となってその面影はなくなっている。
 下つ道の敷設時期もよくわかっておらず、幅員についても平城京周辺を除いては、
橿原市で国道に沿って、
その両側に数箇所調査がなされ、唯一路面とその東側溝が確認されているにすぎぎず、
明らかでない。
平城京朱雀大路の下層では道の両側溝間距離がやく23mをしめしているが、
大和郡山市稗田遺跡では路面幅16mに、東側溝幅11m、西側溝幅3mと、
京外に一歩出ると近くであっても路面幅自体が狭くなっていて、
京の内外で道路幅に変化をもたせていることがわかる。
このことは藤原京にもあてはめることができると考えられ、
そうすると下つ道の幅員は23m前後であったといえる。
下つ道の成立は「日本書紀」の壬申の乱の状況を記した中で、
「軍を分(くば)りて、各上中下(おのおのかみなかしも)の道に
當てて屯(いは)む」とみえるのが初出であるが、
その内容からは既に整備された状況を指しており、
成立時期は横大路と同じころであったのではないかとおもわれる。
 
 平城京から平安京へ遷都すると、旧都間をつなぐ下ツ道の維持管理は放棄され、
巨大な側溝も埋没してしまう。
 平安時代には新たに道幅を狭くし、余分となった旧道部分は
瞬く間に耕作地へと姿を変えていく。
 その後も、下ツ道は一部を中街道として奈良盆地の主要縦貫道の地位を保ったが、
自動車の普及により東を並走する国道24号、そして今では京阪和自動車道へと役割を譲っている。

東側溝:この規模で東側溝が掘られたのは奈良時代の初め。
藤原京から平城京への遷都に伴い、建築資材など多くの荷物が運搬された時期に当たる。
物資の効率的な運搬のために路面は整備され、東側溝も運河として利用された可能性もある。
 下つ道北の突き当たり平城宮正門朱雀門
地図
 「門前の広場は元日のお祝いなど
儀式の場としても用いた。
 朱雀門から南へ延びる道路は朱雀大路。
平城京のメインストリートで、幅は約70m、
平城京の正面玄関羅城門まで続く。」
下ツ道
 近鉄吉野線の岡寺駅に下りると、その北側には、身狭坐神社(むさにいます)の
黒々した森がある。
近鉄吉野線と神社の間を高取川が北流する。
駅の東側は旧道で、橿原市八木(やぎ)から見瀬(みせ)を経て
吉野に向う道路がさびれた味のある見瀬の集落を南北につらぬいている。
この道路こそが、古代の大和盆地の南北の基幹道路であった「下つ道」の一部である。
 下つ道は、その敷設時期はもうひとつわからないが、のち平城京の朱雀大路となり、
やや古くは西京極大路となっている。
また、奈良盆地の条里制(じょうり)の南北基準線となり、
下つ道より東は路東(ろとう)、西が路西(ろせい)となる。
土地区画であるこの条里制の名残は、現在でも水田の形や行政区画の境界となっている。
中世以降、下つ道の名称は「上街道」といわれることが多くなる。
いまでは、ほぼ全線でバイパスができ、国道24号、169号線となっている。
 下つ道の南の起点は、丸山古墳であったらしく、
丸山古墳の北側の外堀中央部の下つ道はつき当たる。
現在の上街道はここで大きく西に迂回し、墳丘に沿って南にのびる。
近鉄の岡寺駅で下車して北に歩くと見瀬の商店街があり、
商店街をすぎると道は東におれ、国道に合う。ここが下つ道の起点であった。
下ツ道
 江戸時代、古代の道下ツ道は、山城・奈良から吉野・紀伊へ抜ける街道に、
横大路は大阪方面から伊勢参りへ向かう街道になった。
下つ道南の起点丸山古墳より169号線を望む
地図
下ツ道
 平城京の中央を南北に貫く朱雀大路は、朱雀門から南へ伸びて羅城門を終点とするが、
羅城門からさらに南へ、道幅20mを超える大きな道が真一文にのびていた。
―道の名を、「下ツ道」という―。
 下ツ道が敷設されたのは、平城遷都より前の6世紀末〜7世紀中頃の間とされ、
当初は現在の奈良市歌姫町付近から橿原市見瀬町付近まで、奈良盆地を縦貫していた。
このような大規模な計画道路が敷設された背景は明確でないが、
灌漑のための池溝・耕地管理のための屯倉・それらを結ぶ道路の3点セットで
盆地内の開発がすすめられたとする見解がある。
 その後、下ツ道の一部が拡幅されて平城京朱雀大路となり、これを中心に京城が展開した。
さらに奈良盆地における条里施工に際しても地割の基準とされ、
土地利用の中心線の役割を担っていた。また、下ツ道を南下すれば南海道に、
平城宮を迂回して北上すれば山陽道(延長上に西海道)、山陰道にそれぞれ接続し、
西日本の官道全てを束ねる国土軸としても機能した。
下ツ道は、律令国家の完成に向けてのびゆく日本の背骨であった。
 都が京都へ移った後も、下ツ道は畿内を貫く地方幹線道として引き続き機能した。
平安時代から中世にかけて、物資輸送・皇族貴族の旅行・戦乱などに際して度々利用されている。
また、室町時代には八木や田原本などに門前町・寺内町やそれに伴う市場・座など
経済的中心が成立し、下ツ道の賑わいは(いや)増したであろう。
 近世に入ると「下ツ道」の名は消え「中街道」と呼ばれるようになり、
道筋も現在の大和郡山市八条町付近から北東へ折れて奈良町へ向かうルートに変更された。
18世紀末には庶民の信仰の道として利用され、
大峯講・伊勢講による道標・常夜燈の整備が盛んに行われたが、
こうした石造物は今も、国道24号の開通によって生活道路と化した
下ツ道=中街道の路傍に立ち、道の歴史を静かに物語っている。

 山の辺文化会議 文化財講座「下ツ道の1300年」
  天理市教育委員会文化財課主事 北口聡人氏 より
下つ道南の突き当たり丸山古墳
 奈良盆地は、それまで湖だったところがしだいに沼地となり、やがて灌漑が進んで農地(主に水田)化され、
人も住めるようになると、山の辺の道は、政治の道としての地位から転落していく。
つまり、もっと使いやすい直線的な道が、山の辺の道より低い標高でつくられたからである。
 それが上つ道である。
 上つ道は現在は上街道とよばれている。
この上街道は、奈良市から天理市を抜けて桜井市にいたる、
奈良盆地東側の主要幹線である。⇒⇒⇒ 
 中ツ道は香久山からまっすぐ北にのびる道で、現在では断片的にしかたどることができないが、
近鉄天理線の前栽駅を中心に、南北にわずかに残っている。⇒⇒⇒
  最もあとにつくられたのが下つ道で、この道は現在、奈良盆地を縦断ぶる国道24号線として、
重要な幹線道路となっている。この道は新しいだけに、沿線には、
初瀬川の三角洲上の唐子遺跡(からこ)のほか、めぼしい遺跡はない。
とくに、古墳は皆無といってもよい。これは、人間が生活できるようになったのが、
ずっと後の時代になってからだということを物語っている。
 しかし、この下つ道が完成すると、これまで海拓榴市(つばいち)に陸あげされていた物資が、
飛鳥の地に移った都に近いということで、下つ道と飛鳥川の交差点が、物資の集散地となった。
 そこは同時に、河内(かわち)から竹内峠(たけのうち)を抜けて、桜井市から伊勢方面に通ずる
横大路との交差点にもあたっていたことから、後の世までずっと栄えることになった。
 現在の橿原市八木(かしはら・やぎ)付近で、後に本願寺の門徒衆がつくった称念寺を中心とした
寺内町(現・今井町)は、今も古い町並をのこしている。かっては、商業の町として、大いに栄えた。
  中ツ道は約2km間隔で並ぶ上ツ道、下ツ道とともに、藤原京付近と奈良市の平城京付近を結んだ。
天武天皇と大友皇子が皇位を争った壬申の乱(672)の戦場であった。道路幅は約23mと推定される。
  大化改新後、上つ道、中つ道、下つ道の三本の道を基準に条里が決められた。
というより、条里制を正確に区画するために、これらの幹線がつくられたともいえる。
 なぜなら、道路が正確でなければ、条里の区画自体も狂ってしまうからである。
 調査で、条里の縦区画が正確に南北をさしていたことが確認されている。
 この三本の幹線がそろったのは、七世紀中頃ということができる
 672年の壬申の乱では、この三本の道は、非常に重要な役割を果たした。
 大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)が隠棲していた吉野をひそかに脱出して美濃に向ったあと、
飛鳥古京(当時、都は近江京)大伴吹負(おおとものふけい)は、乱の最終段階で、
上つ道、中つ道、下つ道にそれぞれ軍勢を配し、自らは中つ道で指揮をとって、
攻めのぼる近江軍を撃退させた。
 時代が下がって、南北朝の争乱のおり、北朝側の奈良・興福寺が、
南朝側の妙楽寺(みょうらくじ)を攻めるのに使った道は、上つ道だった。
 妙楽寺は、神仏習合の時代、多武峰の談山神社と同一だった寺である。  
 持統天皇八年(694)、日本で初めてといわれる中国式の本格的な都城・藤原京が完成、遷都が行われた。
 藤原京の京極(きょうはて=最もはずれの境界)となったのが、中つ道と下つ道である。
横大路を一条とし、南に二条、三条・・・と、十二条までつくられた。
だから、香久山耳成山(みみなし)、畝傍山(うねび)のいわゆる大和三山にかこまれた地区だった。
 和銅三年(710)に遷都が行われた平城京も、中つ道、下つ道が基準にされた。
 都城で最も重要な建物が大極殿で、大極殿の正門からまっすぐに南にのびるが都城内で
最も広くつくられた朱雀大路である。
平城京の朱雀大路が、実は下つ道なのである。そして、中つ道が東の京極とされた。
 藤原京と平城京は、東の京極の線が同じ中つ道上にあったわけで、平城京の西の京極は、
中つ道と下つ道との距離分だけ西に寄ったところに設定された。だから、平城京の東西の幅は、
藤原京の東西の幅の倍だったことになる。
 さらに、平城京の特徴は、興福寺元興寺のある部分に外京(がいきょう)がつくられていたということである。
そして、この外京の東のはずれの線が、ほぼ上つ道に一致する。
 このように、条里の基準のためにつくられたともいえる三本の道が、
その後の国の重要な施策においても、基準にされたのである。
 そのもとは、、先に述べたように、奈良盆地で最も早く開けた東山麓の谷口扇状地を
北につなぐ三輪王朝の山の辺の道からしだいに移ってきたことを思うと、この意味でも、
道とその交通が歴史の性格を決める大きな力になっているということができそうである。
 
 樋口清之  日本人の歴史(7)旅 より  
 中ツ道
 藤原京の東京極大路であった中つ道は、今日の橿原市と桜井市の行政境界線として名残をとどめている。
 敷設時期は先の基幹道路と同じころであったと推定されるが、規模をふくめてその様相ははっきりと
わかっていない。
 中世ごろには中津街道と称されていたが、交通網としてはさほど重要ではなかったようで、
その痕跡はところどころにみられるにすぎない。
壬申の乱と飛鳥
 大海人皇子は全軍に出動命令を下す。壬申の乱では、主として近江を舞台に、
大海人皇子軍と近江朝廷軍の戦闘が繰り広げられた。しかし大和でも、
大海人皇子に呼応して立ち上がった大伴連吹負(おおとものむらじふけい)を将軍とする
軍勢と近江朝廷軍との戦いがあった。
 吹負は奈良市の北方にあたる奈良山へ向って進軍した。途中、稗田(ひえだ=大和郡山市稗田町)
に至ったところで、近江朝廷軍が河内から大和へ向っているとの情報がはいったため、
兵力を割き、河内方面のいくつかの要衝へと向わせた。稗田の集落は古道・下つ道の東に接しているから、
吹負軍は下つ道をとって北上したとみてよい。
 将軍吹負は大野君果安(おおのきみはたやす)率いる近江朝廷と奈良山で戦って敗れ、敗走した。
大野君果安軍はそのまま南下し、八口(やぐち)というところまで来て山に登り、飛鳥古京を望むと、
衢ごとに盾が立てられている。それで伏兵があるかと疑い、果安は引き返したという。
 果安は中つ道を南下して香久山に登ったのだろう。八口の地名は残っていないが、
橿原市南浦町付近に想定できる。
 大野君果安軍が撤退したあと、近江朝廷側の将軍壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる大軍が、
河内から奈良盆地に侵入してきた。
敗走中の吹負は、美濃から救援にかけつけた置始連兎(おきそめのむらじうさぎ)の率いる
千騎の騎馬隊に助けられて、本営を金綱井(かなつない=橿原市小綱町)に置いて態勢を立て直し、
横大路を西進して当麻(たいま=北葛城郡当麻町)に至って韓国の軍と戦い、勝利を収めた。
 その頃、美濃からの救援軍が大和に多数到着したので、本営に戻った
吹負はそれらの軍勢を分け、それぞれ「上・中・下つ道」に当たらせて、自らは「中つ道」の守衛についた。
折りしも近江朝廷軍は、奈良山を越えて奈良盆地を南下し、「中つ道」では村屋神社(田原本町)付近で、
「上つ道」では箸陵(はしのみささぎ=箸墓古墳、桜井市箸中)の辺で吹負軍と激突、
吹負軍の勝利に終わった。
 以後、近江朝廷軍が大和を襲うことはなくなった。
 壬申の乱時、上つ道・中つ道・下つ道の三つの古道が存在していた。
下つ道の路面や東西の側溝は、平城宮朱雀門の下層などで検出されており、
七世紀後半にはすでに敷設されていたことが裏付けられている。側溝や犬走りをあわせた道路の規模は
34.5m(路面幅は18m)で、大和の古道では横大路(道路規模は42m。路面幅35m)に次いで広い。
2003年6月に、中つ道の路面や東西側溝も橿原市の出合(であい)・膳夫遺跡(かしわで)の調査でみつかった。
藤原京の東四坊大路として利用されており、当初の道路規模は17.5m(路面幅14.5m)。
藤原京のある時期に拡幅されたことも判明した。
 和田 萃   飛鳥 より 
 日本書紀には613年に難波から京(飛鳥)に至る大道を敷設したこと、
653年に処々の大道を修繕したことが記されている。7世紀の初頭〜半ばに国家事業として
大規模に道路が整備されたことを示し、このような道を官道と呼んでいる。
奈良盆地では全国に先駆けて官道網が整備された。 
 チマタ⇒⇒⇒

上街道 河原城

      奈良県天理市川原城町

奈良と桜井を結ぶ街道は、古くは上ツ道、近世に

は上街道と呼ばれ、多くの旅人が行き交いました。

特に鉄道が開通する明治までは、大阪方面からの

伊勢参宮の道として賑わいました。今でも年末に

なると大阪玉造から伊勢神宮へ歩いて参拝「伊勢

迄歩講」の一行がこの道を通ります。

川原城の地名は、近隣の荘園が興福寺領であった

頃、この地は高市郡川原寺(弘福寺)領の「川原庄」

として文献に登場します。

室町時代には河村大學正武が城塁

を築いたことから「河原城」と呼ばれ

るようになったと考えられます。北で

この道と交わる本通商店街は、かつて

大鳥居が建つ石上神宮の参道でした。

「右 ふる 内山・左 たった 法隆

寺 大坂道」と刻まれた道標が、新川

原城会館に移設されています。当

宮西家(屋号 ウ)はここから南へ延

びる街道が屈曲したところにある本家

から、明治期に卯之吉が分家して

織物商をはじめ、後に米や雑穀、茶な

どを扱うようになりました。家の前

には昭和34年まで水路があり、隣の

鍛冶川家前にある石橋がその名残を

伝えています 成24年に築百年余り

の古民家を大和高田市の当广紀志氏

の設計、吉川工務店の施工により再

生しました。

  紀伊半島交流会議伊勢街道分科会

  風景街道「伊勢街道」連絡協議会

古代官道のその後
 3本の官道は、都が現在の京都府に移ると首都高速道路の地位をうしなう。
 その後も吉野などへの参詣に利用されるなど、近畿地方の主要道路として利用され続けた。
現在は道幅も狭くなり、往時の偉容とはくらべものになりませんが、
上ツ道は上街道、中ツ道は橘街道、下ツ道は中街道と名前を変えて利用されている。  























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