大和神社(おおやまと)地図
主神は大和一国の地主神である 大和大国魂大神(中殿・やまとおおくにたまのおおかみ・大地主大神おおとこぬ しのおおかみ)、八十矛戈大神(左殿・やちほこのおおかみ・大国主命の別称))、 御年大神(右殿・おとしのおおかみ)の三座を祭神としている。 社格 旧官幣大社 由緒⇒⇒⇒ |
大和国のなかの「大和」といわれ、伊勢街道にもめんする地に鎮座する神社。 祭神大国魂大神は、崇神天皇の時代に天照大神とともに登場し、以来大和の 国を守ってきた。 |
これより先、天の神・天照大神と地主神・倭大国魂を皇居の内に祀った。 しかし、天皇はニ神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。 そこで天照大神は豊鋤入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り堅固な石の 神籬(ひもろぎ)を造った。 また、日本大国魂神を渟名城入姫に祀らせた。 いま、天照大神は伊勢神宮内に、日本大国魂神は大和神社に鎮座される。 |
大国魂大神と御年大神は大年神の子で、素戔嗚尊の孫にあたる。 |
大国魂大神は、崇神天皇の代まで天照大神と共に、宮中にまつられていた。 やがて天照大神は伊勢神宮に、大国魂大神は大和神社に居を定めた。 |
天照大神、伊勢へ | 大国御魂神 | 天照大神 | 大和神社 |
檜原神社 | 穴師坐兵主神 | 大神神社 | 箸墓古墳 |
豊鍬入姫宮 | 崇神天皇 | 垂仁天皇 | 大直禰子神社 |
大和神社社地の変遷 和田萃 | 長岳寺 |
上ツ道に面した一の鳥居から社殿までの参道は長さ270m。戦艦大和の全長とほぼ同じ。 | |
天理市の南部地域にあって歴史のある元延喜式名神大社で、祭神は大和大国魂大神である。 神名のとおり古代においては、皇室神である伊勢神宮の神と共に祭祀された。 遣唐使は出発前、航路の安全を願って必ずここに参拝したといわれる。 現在の鎮座地は新泉町であるが、ここは15世紀はじめごろに移された場所である。これより以 前の鎮座地は、幾たびかの御神体の焼亡などにより移動を余儀なくされて明らかでない。 |
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2月10日には地元の中学生が昔ながらの装束で、境内で田植を模して豊作を願う御田植祭、 4月1日に行われるチャンチャン祭り(神幸祭・渡御の儀・とぎよ)は、春を告げる祭りとして賑 わい、渡御行列が鉦(かね)を打ち鳴らし、1km離れた御旅所まで練り歩く。 8月7日には戦艦大和みたま祭が行われ、死者を悼み平和を願う。 |
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9月23日には江戸時代の雨乞いが発祥という紅しで踊りがある。 丹生河上神への奉幣が恒例化していく国家行事としての雨乞いにおいて、必ずそこに大和神 社の神主が同行しなければならないという規定があり、国家としての関わりが深い。 |
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太平洋戦争中は、日本海軍が世界最強を誇った戦艦「大和」の守護神として、 この神社の分霊が「大和」に奉祀さられた。 「大和」は昭和20年4月7日徳之島西方で3千もの命(軍人軍属ら乗組員3302名の内生存者 わずか267名)と共に轟沈した。 |
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ヤマトの「ヤマ」は本来、三輪山を指す。 ヤマトの地名は、もともと初瀬川の流域で、三輪山と香具山を結ぶ狭い範囲であった。 (三輪山を仰ぐ山の辺の道に沿った桜井市を中心とする地域) それがのちには大和国全体さらには「敷島の大和国」と日本全を指す地名となった。 オオヤマトは、このヤマトの北側に接する地域を指す地名であった。 オオヤマト神社の社名は、城下郡大和郷に鎮座していたからにほかならない。 |
4月1日には、大和 にいち早く春を告げる「ちゃ んちゃん祭」が行われる。また 9月23日には、市無形民俗文 化財に指定されている、雨乞 満願の「紅幣(ぺにしで)踊り」 が奉納される。 |
呉市:大和ミュージアム 戦艦大和10分の1模型 K.T氏ご提供。 |
1月4日 境内 |
摂社:高龗神社 | 摂社:増御子神社 |
大和神社ちゃんちゃん祭り⇒⇒⇒ |
ちゃんちゃん祭り お渡りには2台の神輿がでる。明治以降陽暦4月1日になった。 中世近世では陰暦4月1日 (5月上旬)本来の時期では、稲作の播種、苗代を、 裏作の麦作では収穫の時期にあたる。・・・.順調な降雨、豊穣祈願、収穫感謝。 ①『尋尊大僧正記』じんそんだいそうじょうき長禄3年(1459年)4月1日の条に 大和社神事の初見。文明13年(1481年)神輿2基の出御が記されている。 ちゃんちゃん祭りの原型は十五世紀の中期までには出来上がっていた。 ②本社神輿 神輿(八角形神輿) 主神·大国魂大神 ③増御子社神輿(ますみこしや) 神輿(神明型神輿)猿田彦大神 |
お旅所へお渡りする目的 1)親戚に会いに行く 崇神天皇の御代、天照皇大神と大和大国魂神は宮中に祀られていた。天皇五年国内 に疫病多く、この二神が同床にあるのはおそれ多いとし、天照皇大神を笠縫村に遷 し、大和大国魂神を皇女淳名城入姫に祀らせたが、姫は髪落ち体痩せ、祭祀ができ なくなった。(日本書紀) .
大和神社の初代宮司であったという言い伝え。倭大国魂神の乳母、姉·娘などと伝えられる。 大和神社の神と共にお旅所に出かけていただく。 中山の大字にとっては、年に一度、子の大和神社の神が母親に会いに来る祭りだと いう。 2)分霊する お旅所である若宮社を祭祀することは、九ヶ大字に新たな分霊を迎えたことに通じる。 3)鎮座する 大字間の結びつきを良好にする。 祭りを準備する為の仕事を分けて、各大字が協力して行う事で人間関係が良くなる。
4)豊作祈願と収穫感謝 旧暦4月1日は稲作の播種、苗代を、裏作の麦作では収穫の時期にあたる。.. 豊穣祈願、収穫感謝。ちゃんちゃん祭りは、九ヶ大字が一体となって大和神社から 新たな分霊を迎え、生産上の新年にあたって、来たるべき稔りの豊穣を大和神社の 神に祈願する祭りである。 5)順調な降雨を願う 頭人子による龍の口舞.・・・龍頭は龍神・水神とのかかわり。 翁の舞.・・・順調な降雨の獲得と穀物豊作への祈願。 5) 大和神社の神輿には二千年前からの伝統が神輿の構造とちゃんちゃん祭りでの 神輿の役割に現在もなお見られる。 |
4月1日、大和路に春を告げる大和神社の「ちゃんちゃん祭り」が営まれる。 花で飾られたみこしや白装束の氏子、騎馬武者、稚児らの行列が山の辺の道を行く。 青銅の鉦(かね)を「ちゃんちゃん」と鳴らす音に先導される「神幸祭」の行列の呼び名が そのまま祭礼全体の名になっている。 祭りのはじめはちゃんちゃん祭り、祭りのおさめはおん祭りと歌われた。 市内の9地区の氏子や稚児、特に毎年交代する頭屋(とうや)と呼ばれる各町の代表が 大きな役割を果たす。 |
大和郷しで踊り〔市無形文化財〕 しで踊りは大和神社に伝わる民俗芸能である。奈 良盆地は古くから田植え時の水不足に悩まされてきた。 当地方では旱魃になると、大和神社への参拝と龍王 山に登り雨乞いを行った。その願いが叶い降雨をみ ると、竜王に感謝の意を込めて雨乞満願踊が奉納さ れた。これが今に伝わるしで踊りである。毎年9月 23日に神社境内でにぎやかに踊られる。 |
大和稚宮神社(大和神社御旅所) | ちゃんちゃん祭りと神輿 | ちゃんちゃん祭り |
馬口山古墳 | 天理市埋蔵文化センタだより ちゃんちゃん祭りの記録と伝承 |
摂末社 | 神 社 名. | 祭 神 | 場所 | 例祭 |
摂社 | 朝日神社 | 朝日豊明姫神 | . | . |
. | 増御子神社(ますみこ) | 猿田彦命 天鈿女命 市磯長尾市命(知恵の神) |
. | . |
. | 高龗神社(たかおおかみ) | 高龗神(天候・産業を司り、水利を授ける) | . | 6月1日 |
. | 渟名城入姫神社(ぬなきいりひめ) | 渟名城入姫尊 | 岸和田 | . |
. | 御旅所坐神社 | 大和大国魂大神 八十矛戈大神 御年大神 |
中山町 | . |
末社 | 祖霊社 | 大国主神 戦艦大和の英霊・氏子 神葬者祖霊・旧朝倉村戦死者の英霊 |
. | . |
. | 事代主神社(ことしろぬし) | 事代主神 | . | . |
. | 厳島神社(いつくしま) | 市杵島姫命(いちきしまひめ) | . | . |
. | 歯定神社(はじょう) | 大己貴命(おおなむち) 少彦名神(すくなひこな) |
.中山町 | 1月15日 |
市磯長尾市命 | ||
大国御魂神 | 大和神社由緒 | 大和神社社地の変遷 |
大和神社 |
月・日 | 時間 | 祭 名 | 備考 |
毎月 1日・15日 |
. | 月次祭(つきなみ) | . |
1月1日 | . | 歳旦祭 | 初神楽祈祷 |
1月4日 | . | 御弓始祭(おゆみはじめ) | 通称平国広戈乃祭 |
2月節分 | 午後7時 | 節分祭 | 粥占祭(かゆうらない) |
2月10日 | 午後2時 | 御田植祭 | . |
2月11日 | . | 紀元節祭 | . |
2月17日 | . | 祈年祭(きねん) | . |
4月1日 | 午前10時 午後1時半 |
例祭 渡御祭 |
ちゃんちゃん祭 |
4月7日 | . | 戦艦大和 第二艦隊戦没者慰霊祭 | . |
6月30日 | . | 夏越大祓式(なこしおおはらい) | . |
8月7日 | . | 戦艦大和みたま祭 | . |
ニ百十日 | 風鎮祭 | . | . |
9月23日 | 午後1時 | 秋祭 紅幣踊り奉納(べにしで) |
豊作感謝祭 市無形民俗文化財 |
10月17日 | . | 神嘗奉柷祭(かんなめ) | . |
11月1日 | . | 交通安全祭 | . |
11月3日 | . | 明治節祭 | . |
11月23日 | . | 新嘗祭(にいなめ) | . |
12月23日 | . | 天長節祭 | . |
12月31日 | . | 年越大祓式 除夜祭 | . |
〇中村直三・・・文政2年 (1819) 3月8日に、善五郎•さか夫妻の長男として大和国山辺 郡永原村(現天理市永原町)に生まれ、激動の時代(近世から近代への転換期)を生き 抜いて、明治15年(1882) 8月13日にこの世を去る。 〇「明治三老農」の一人に数えられるようになった直三・・・幕末・維新期には大和の各 地に存在した老農たちをリードする存在となり、晩年には全国各地へ赴いて農事改良 指導を行うようになった。後年に直三は、式下郡檜垣村 (現天理市檜垣町)の鴻田忠 三郎・式田喜平とともに「大和三老農Jと称されるようになり、さらに、奈良専二 (香川) •船津伝次平 (群馬)とともに「明治三老農Jの一人に数えられるようになっている。 ※老農とは、在来農法を研究し、自ら工夫・実践して高い農業技術を身に付け、地域 において農事改良活動をリードした農民をさす。 〇直三のねらい・・・農事改良 (増産)によって、窮民の救済に資するとともに、「世上の 利益」(『大和穂』)の増進をはかり、「世の賑わひJ (『ちわら早稲』)を実現すること(別の 表現をすれば、「国益」〔『勧農微志』:!の増進をはかり、「国中一体」 の「潤」を実現する こと〔大和から全国へ:))。 〇直三の活動の中心・・・稲の優良種の入手=> 試作による比較=> 特に優れた品種の 選別・普及増産。 〇直三のもとに寄せられた稲種・・・慶応元年(1865) 44種、同2年(1866)100 種、明治6 年(1 8 7 3) 2 0 0 種、同10年(1877) 321種(うち大和産246種)、同14年(1881)742種(他に 綿種2 7種)。 ※明治10年の数値は第1回内国勧業博覧会、同14年は第2回内国勧業博覧会への出 品数。 2024-2-24 山の辺文化会議「地域史講座」資料より |
中村直三農功之碑 この碑は、「明治三老農」の一人に数えられ、日本の近代農業の礎を築いた中村直三の 偉大な功績を讃えるために、奈良県出身の各界の著名人の呼びかけによって、明治三二 年 (ー八九九 )にこの地に建立されました。 文政二年 (ー八一九 )に大和国山辺郡永原村 (現天理市永原町 )で生まれた中村直三は、 天保飢饉の惨状を目の当たりにして農業の大切さを痛感しました。本格的に農事改良活動 を行うようになったのは幕末期で、多くの人々の支援を受けながら、試作した稲の優良種を 国内に広めて増産をはかることに力を尽くしました。 明治の新時代を迎えると、行政やメディアも活用しながら農事改良活動をさらに推進する ようになり、その名声が高まる晚年には、秋田県をはじめ全国各地から招聘され、農業の 指導に赴くまでになりました。こうした活躍ぶりから明治一五年 (ーハ八二 )三月に明治天皇 御臨席のもと特別名誉賞及び金牌を授与されました。直三は生地である大和の農業の発展 のうえにも大きな足跡を残して、同年八月に病没しました |